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フレームワーク~誤審の境界線~(後編)

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前編で紹介したフレームワークに基づき、後編では筆者自身が考える「誤審」の定義をフレームワークで示しつつ、その他にも考慮しうる論点を拡張的考察として述べていきたいと思います。

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フレームワークに基づく筆者の「誤審」定義

ここからはフレームワークに基づいた筆者自身の考えを述べたいと思います。便宜的に図の通りに番号を振った場合、筆者自身が「誤審」と定義できるのは「O2」「O4」そして「O5」の3種類のみです。

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まとめて文章にすると、「客観的事実を判断の根拠とする事象」についてのみ、「措置」有無にかかわらず不備が認められた場合のみを「誤審」とみなす、というのが筆者の考え方になります。

ここで、「S8」や「S10」といった「主観的判断を伴う事象」について「誤審」の評価を下していないことにお気づき頂けるかと思います。これが論点2や論点5を「主観的判断を伴う事象」に適用しなかった理由と密接にかかわるのですが、「主観的判断を伴う事象」に対する「措置」について「正/誤」の根拠を求めた時、明確に客観的な根拠を提示することは極めて困難です。どこまでいっても「主観」が根拠になります。サッカーの競技規則が、あくまで審判による判断を基準における余地として残している以上、この性質から逃れることはできません。このため、フレームワークにおける分類からは設計上除外することとなりました。

ある審判のファウル判定を巡り「不用意か否か」が争点となった場合、審判が「不用意」とみなしてファウルを認めたとしても、見る人によっては「不用意でない」または「サッカーではよくあるプレー」「現場の感覚ではファウルとは言えない」と異なる意見が提示されることはよくあるでしょう。ただしその場合でも、客観的な事実の認識に特に問題がない場合、「不用意」とみなした審判の判断を「誤審」とみなすのは根拠を欠くと考えます。少なくとも、「他の見方もある」程度で留める話であり、競技規則に照らし合わせて問題のない以上「正しい判定」とみなすのが妥当であると、筆者は考えます。

以上が筆者の基本的な考え方ですが、ここで終わっては「結局審判の判断に従いなさい」と捉えられかねないので、「S8」や「S10」の事象についてもう少し深堀りしたいと思います。厳密に「誤審」か否かを評価する観点から少し視野を拡げ、印象も含めて何が「誤審」と思わせるかをいくつかの論点を踏まえて取り上げたいと思います。

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<拡張的考察論点1>主催・公式機関による認定

カップ戦などの公式大会やリーグの追跡調査をもとにしたレポートでは、「主観的判断を伴う事象」に対しても断定的に「誤審」と認めるケースが見受けられます。Jリーグジャッジ「リプレイ」(以下、ジャッジリプレイ)でも「誤審」という直接的な表現は用いずとも、判定の誤りを認める場合があります。この認定を以て「誤審」と見なす考え方が実在することは認識しなければなりません。

ただ、先述の筆者基準に照らし合わせれば、正直違和感を覚えます。競技規則から何ら逸脱していないのに「誤り」と断定されるわけですから、「それなら最初から競技規則上で明文化してくれよ」と思ってしまいます。昨今の「ハンドの反則」の基準明確化が、杓子定規な判断のもとにむしろ違和感を与えてしまうこともあるように、サッカーの競技規則がすべて明文化できる類の性質のものでないことは重々承知しています。それゆえに、いわゆる「18条」の存在含め、サッカーの競技性質が持つ曖昧さを起点とした文化を大切にするという意味でも、主催・公式機関が「主観的判断を伴う事象」に対して、他の可能性を完全に排する形で断定的評価を公表するのは控えたほうが良いように思うのですが、私だけでしょうか。。。

※主催・公式機関によるレビューやレポートそのものを否定しているわけではございません。念のため。

<拡張的考察論点2>大多数の意見・サッカーの常識的感覚

前述の「主催・公式機関による認定」と似ていますが、明文化されていないサッカーの常識を根拠に「誤審」か否かを判断する見方は往々にして実在します。個別具体例は挙げませんが、Jリーグジャッジリプレイで監督・選手経験者が審判委員会の見解に「現場の感覚」を根拠に異を唱えるケースがこれにあたります。一個人の意見と捉えてしまえばそれまでなのですが、監督・選手経験者の大多数の感覚と一致していることも少なくないでしょう。

個人的には、この「現場の感覚」については一定の説得力があると考えていて、言語化への試みを何度か考えたことがあります。失礼ながら、監督・選手経験者が12条のファウル要件をすべて網羅的に把握しているとは限らないと思うのですが、判定に対する反応を見ていると、彼らの見解が言外に共通の価値観のもとで一致している感覚はよく覚えるところです。

<拡張的考察論点3>判定の困難さ

あまりにもプレーの事象が高速すぎて判定不能な場合、正しくないかもしれないけれど「誤審」というには少々厳しいという見方もサッカーにおいては想定されます。ジャッジリプレイで取り上げられたシーンでも、コマ送りで見ても判別不能なケースがいくつか見受けられました。

厳密に事実を調査すれば「誤審」の要件を満たしている場合であっても、仕方ないという理由で定義から外してしまうという考え方は、サッカーの見方としては十分に可能性として考えられるものと思います。

<拡張的考察論点4>得点・PK・退場等重大な事象に関わるか否か

ここまで述べてきた事象は特にその範囲を限定しておらず、一律にすべての事象を判断する場合のフレームワークや論点として紹介してきましたが、そもそも「誤審」と感じるか否かについて、得点・PK・退場といった試合の結果に直結しうる要素に関わるかどうかが重要、という見方もあるでしょう。ハーフウェーライン付近で得点にも直結しないスローイン判定において「誤審」が発生する可能性はありますが、その状況を「誤審」として気にするかどうかといえば、忘れてしまうケースも多いと考えられます。

2020年シーズンから明治安田生命J1リーグに導入されるVARにおいて、その確認の対象を限定していることは周知の事実です。定義の目的にもよりますが、判定評価のみならずそもそも事象は何かという線の引き方も、考え方としては十分に想定できます。

<拡張的考察論点5>所属または応援しているチームに対し有利か不利か

「誤審」という印象を抱くか否かについて、究極の論点はこれではないでしょうか? 全く同じ事象であっても、所属または応援しているチームに対して有利な措置であれば「誤審」とはみなさず、不利な措置であれば「誤審」と断定する。よく見かける光景ですね。不自然ではないと思います。

いろいろな見方があると思いますが、筆者自身としてはサッカーにはチームの当事者や審判団以外のステイクホルダーの存在が欠かせないと考えており、また論理的な思考を抜きにした感情の発露の場であることもサッカーの魅力と考えています。関わる人すべてが公平かつ一貫性のある基準や観点を持つことは、それはそれで素晴らしいと思いますが、少なくともサッカーという競技において基準の公平性以外を優先したものの見方、あるいは競技規則に対する厳密な理解とは離れた意見表明が存在すること自体は、避けられない(むしろあるほうが自然)事実として認識する必要があるでしょう。

おわりに

以上、サッカーにおける事象に対する判定を分類するフレームワークを提示し、そのうえで筆者自身の考えを述べたうえで、ほかにも想定しうる論点を拡張的考察としていくつか検討しました。

ことこのテーマに関しては正論を模索して、理想とされる考え方を若干の押し付けも含めて展開しようとする動きが多くなりやすいのですが、筆者個人としては考え方の違いが明確になることが重要と考えています。フレームワークにおける評価が異なる場合や、拡張的考察で述べたいくつかの論点を拠り所とした考え方の場合でも、それは各々の立場に基づく重視する点の違いによるものであり、考え方の違いそのものが否定される話ではないと考えます。筆者自身はいわゆる「競技規則に対するリテラシーの向上」に対して積極的に関与しようとまでは考えていないのですが、仮にそのような役目を担うのであれば、まずは考え方の違いを前提としたアプローチを検討する必要があるかもしれません。

このタイミングで本記事を書いた一つの理由に、明治安田生命J1リーグにおける2020年シーズンからのVAR導入が挙げられます。ジャッジリプレイという「前振り」があったとはいえ、審判や判定に対する注目度が高まることは避けられず、特にSNSにおいては例年以上にレフェリングにおける議論がヒートアップするでしょう。また、VAR導入に対する効果検証や測定結果も公表されると思いますが、事象の件数カウントや正/誤の割合が数値として公表されたとき、その定義に対する認識を合わせないことには建設的な議論は始まりません。その意味で、まずは議論に関わる方々の目線の違いを認識すること、そのうえで共通のモノサシを以て議論をする必要がある場合は、その定義を言葉にして共有する必要があると考えました。本記事のフレームワークに関わる考え方を一つの参考として前向きな議論が展開されれば、大変嬉しく思います。

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