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『無職転生』は21世紀のマイホーム主義

「異世界」と「家」は何だか釣り合わない。「異世界」はファンタジーだ。一方で「家」は現実を想起される。もし可愛いヒロインと一緒に剣と魔法の世界で冒険できるのなら、誰が「家」で「家族」と退屈そうな日常を過ごすだろう。

しかし、『無職転生 〜異世界行ったら本気だす〜』(以下『無職転生』)はまさにそのようなTPOを無視して異世界で「家」と「家族」を唱えた物語だ。その人気の高さに明らかにされたのは、非婚化が進み、出生率が低下する時代で、若者が一見家族を作ることから遠ざかったように見えるものの、「家」と「家族」の魅力が依然として彼らの心を惹きつけていることだ。マイホーム主義は、まだ健在だ。

『無職転生』を貫いたのは家族というテーマ

『無職転生』は壮大な人物伝を語っている。物語は主人公・ルーデウスがひきこもりであった前世から始まり、異世界に転生し魔法の修業に勤しむ幼年期、「転移災害」に巻き込まれて魔大陸で冒険する少年期、魔法大学に入学し幼馴染と結婚する青少年期、悪役である「人神」と戦う青年期を経て、74歳で妻と子孫と妹に囲まれて老死することで完結する。ほかの異世界小説に類を見ない、まるで大河小説のような物語だ。

なぜ、ほかの異世界小説はひたすら冒険や戦闘を語っているのに、『無職転生』は主人公の人生をまるごろ読者に見せるのだろう。なぜ、『リゼロ』はナツキ・スバルが次から次へと過酷な試練を乗り越えなければならないのに、『無職転生』はルーデウスが転移災害で廃人になった母親・ゼニスの面倒を見るエピソードも、3人の嫁と睦み合う瞬間も、子供に剣の稽古をつける日常まで物語るのだろう。

その答えは『無職転生』のストーリーを貫いた「家族」というテーマにある。そう、そのサブタイトルのように、主人公が異世界に行くのは退屈な現実世界から脱出し剣と魔法の世界で冒険するためではなく、「本気」で生きるためだ。主人公にとって本気で生きるのは何を意味するのか。冒険や手強い敵を負かすのではなく、前世で主人公がひきこもって葬式も出席しなかった家族を大切にすることだ。『無職転生』は最初から現実離れした「異世界物語」を語ろうとしていない。主人公が望んでいるのは、転生前の現実社会に描かれる「理想的な人生」を生きることだ。

自分の家族を作ることで成熟していく

そう考えると、『無職転生』のストーリーはシンプルだ。まず、1巻から14巻まで描かれるのは主人公が成熟する過程だ。

12巻で父親・パウロが迷宮で死に、母親・ゼニスが廃人になり、ルーデウスが二人目の嫁・幼いごろの家庭教師・ロキシーと結ばれ、一人目の嫁・シルフィの子供が出産する。この一連の展開は主人公にとって重大な意味を持つ。主人公は前世で30歳になっても両親に保護され、結婚・出産どころか両親の家から出ることすらできない。つまり、前世の主人公は成熟することに失敗したのだ。だが、異世界に転生し、転移災害で家から出るのを余儀なくされた主人公は、冒険し、可愛い女の子を嫁にし、子供を作る。12巻で両親が死亡(もちろん母親は死んでいないが、死んでいると考えて良いだろう)し、主人公・ルーデウスが二人目の嫁・ロキシーと結婚し、さらに一人目の嫁・シルフィが出産するのは、実家の消滅とともに、ルーデウスが新しい家・家族を作ることを意味する。生前でひきこもり、家から独立することを失敗する主人公は、転生後に家族を作り、成熟することに成功するのだ。

13巻の表紙は、ルーデウスが自力で作った家族たちの写真だ。

家族を、必死に守る

次に、15巻から26巻まで描かれたのは必死に家族を守るルーデウスの姿だ。14巻・15巻でルーデウスは、いままで人生を導いた「人神」が裏で家族の破滅を企んでいると未来の自分に忠告される。ルーデウスは家族を守る、家を守るために何だってやる。最初は龍神・オルステッドを殺すことを交換条件として人神と交渉する。のちにオルステッドを殺すことに失敗し、オルステッドの配下になり、物語で最大の悪役である人神と戦うことになる。終盤は、人神が滅び、74歳のルーデウスが子孫に囲まれて死亡する。

マイホーム主義

『無職転生』は「マイホーム主義」を想起させる。マイホーム主義とは、高度経済成長期で仕事や政治参加などより家族を第一にし、家族以外のことに興味を持たないという現象を指す。マイホーム主義に対しては、もちろん仕事に傾いた人生から生活の豊かさを取り戻すという視点もできれば、パブリックからプライベートへの撤退という批判もありうる(とりわけ政治への関心が薄まるのが問題視される)。その良し悪しはともあれ、高度経済成長期では人々の生活様式が均質的であるためマイホーム主義が議論の標的となった。しかし、不婚・晩婚・少子化など典型的な家族形態を解体させる流れが進んでいる現在では、マイホーム主義がすでに論者の関心を失った。「ホーム」そのものが存在しないから、「マイホーム」の良し悪しを議論する意味もなくなったのだ。

現在の社会学者や政治家は若者の不婚・晩婚・子育てへの拒否を繰り返して問題視しており、若者があたかも妻も子供も欲しくないようになっている(例えば、「低欲望社会」や「草食化」など用語)。しかし、彼らは果たして家庭を持つことを望まないのだろうか。『無職転生』とその人気の高さが示したのは、「理想的な家族」への欲求がいまだに健在であることだ

「理想的な家族」が健在であるにもかかわらず結婚率や出生率が低下するのであれば、「結婚したくない」・「子育てしたくない」のではなく、「結婚できない」・「子育てできない」・「結婚しても理想的な家族を作れない」・「子供を産んでいも理想的な家族になれない」というのが真の問題なのではないか。(確かに、調査で「結婚したくない」と答える人の割合が増加しつつある。しかし、果たして結婚を望まないか、あるいは結婚が困難だから断念したかと疑問に思う。)

となると、検討すべきのは若者の「欲望」なんかではなく、打ち出すべきのも奨励政策ではないのだ。なぜなら、いくらお金を配って結婚・子育てへの意欲を促そうとしても、出会いやすい・結婚しやすい・子育てしやすい環境が整えられていない以上、結婚・子育てしたくても結婚・子育てしようがないからだ。女性が結婚したら仕事を辞めるしかない、男性が仕事に打ち込んだら子育てする暇がなくなると言っているのだっけ。そちらの問題を優先して解決すべきだろう。

『無職転生』はただ社会に描かれた理想的な家族像を繰り返す

このように『無職転生』は「理想的な家族」がいまだに魅力的だと示した。しかしながら、一つ問題が残っている。こうした家族像は、果たして21世紀の生き方にふさわしいのだろうか。むしろ、『無職転生』は高度経済成長期の「父がウチをソトの脅威から守り、母が家庭を営み、父を労う」という保守的な家族像を、それを失った現代の読者に提供している。ルーデウスにとって日常は、昼に家の庭で子供と剣や魔法の稽古をし、夜に3人の妻と性を営むというものだ。それはあたかも昼に子供に数学や国語を教え、夜に妻と寝る、現実社会での理想的な父のようだ。

こうした家族像を批判したいわけではない。幸せで生きていけば何の問題もないだろう。ただし、それでは『無職転生』の想像力があまりにも貧弱なのではないか。結局、「本気で生きる」のは社会に規定された道を歩むしかないのだ。我々は(男性の場合だと)家庭を守り、(女性の場合だと)夫を支える以外に、人生を幸せに生きようがないと言わんばかりだ。『無職転生』で提示された家族像は確かに幸せな人生へ導くことができるかもしれない。しかし、それ以外にどのような幸せな人生がありうるか、それを想像する力は我々にない。

『無職転生』は異例ではない。例えば『異世界のんびり農家』も、主人公が異世界で自分の領域(=マイホーム)を作り、外の脅威から領域を守りながらヒロインたちに労われるのを筋とする物語だ。異世界に転生してはいるものの、我々はどうやら現実社会の「ホーム」を忘れられないようだ。

『無職転生』は、読者がいまだに「理想的な家族」を望んでいるのを示した。しかし一方で、理想的な家族への想像があまりにも乏しいのも明らかになっている。今後のサブカルチャーに必要なのは、社会に描かれた(規定された)幸せな人生から脱線できる想像力だと思う。私はそう期待する。



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