うねっている

“陰キャ”とか“ぼっち”という言葉の使うハードルが低くなっている気がする。SNS上では可哀想な自分を見てもらいたい、共感してほしいというような承認欲求を満たすために使われるようになったとすら思える。元々は、誰かを馬鹿にするような言葉であり、自分からは口にしない方がいいものだったと思う。

“彼氏のそばにいて欲しくない女“も、否定的な印象というよりも”良い女“の呼称として使われ始めているように感じる。個人的な印象では、“彼氏のそばにいて欲しくない女“は学校1の美女のように大勢の注目を集めるのでなく、影で男を誑かす”ファム・ファタール“的な存在のように感じる。また、好きな人と付き合って上手くいくことが幸せというよりも、あまり目立つことはせず、自由に、時にずる賢く生きる女性に対する憧れの方が強まっているのではないかと想像する。

以前までは否定的な言葉として使われ、時に避けられていた言葉たちが、肯定的な言葉になり、使用されるのはどうしてだろうと思った。当たり前だった価値観とはこうやって変わっていくのだろうか。

あまりドラマは見ない方だが、2021年に日本テレビで放送された菅田将暉さん主演の「コントが始まる」とフジテレビで放送された綾野剛さん主演の「アバランチ」はほとんど毎週見ていた。

「コントが始まる」は解散の決まった3人組のコント師がそれぞれの道を歩み始めるまでの苦悩や葛藤が描かれているドラマで、特に鈴木浩介さん演じる3人の恩師“真壁先生”に解散を相談したシーンで「18歳から28歳までの10年間とこれから先の10年間は、別次元の苦しみだぞ」というセリフが印象に残っている。いつもは明るく前向きな言葉をくれる相手から、夢を追いかける辛さを説かれてしまう。28歳という年齢の中で、夢と現実の間を悩みながら生きている姿は誰の心にも迫るものがあると思う。作中そのようなシーンがいくつもあり、その分人の温かさをより感じることもできる。その後、真壁先生も夢を諦めた経験を語りながら、「愚直に夢を追い続けたお前らの方がずっとずっと偉いし、ずっとずっとすげえんだからな」という言葉を伝えていて、厳しい中にも優しさがあると感じた。

「アバランチ」は強大な権力に自分や大切な人の人生を狂わされた人たちがアバランチという秘密組織を結成し、巨悪に立ち向かっていくストーリーである。鮮やかな手口で悪を退治するようなスカッとした作品というよりもリアリティのある作品づくりで、全体的に各話後味の悪い終わり方をするのが珍しいストーリー展開であると感じた。

生きづらさを抱えた人や人生がなかなか上手くいかない人たちの物語は小説の中にはずっとあったような気がした。深夜ドラマなどでもあったと思う。
だけど、ゴールデンの視聴者が一番多い時間帯にこういったドラマが放送されているのは意外に感じた。恋をしたら報われ、夢が叶うような、いわゆる王道のストーリー展開ではなく、むしろ主人公と結ばれなかった女の子や夢破れた旧友みたいな脇役が主役になっているように感じる。

今までは何となくお金持ちになったり、夢を叶えたり、家族を作ったりすること=幸せというのが当たり前だった。
今は逆に、個人には個人の幸せがあるということが尊重されるべき、もしくはこんな幸せはどうだろうかとそれぞれが投げかけている最中であるように思う。
ちなみにそういった現象に当てはまる言葉は多様性というよりは、世代交代的なものではないかと考える。中心にいる属性が変わって、家庭を持つことやお金持ちになることは変わらず幸せの1つの形のはずなのに、それらが疎外されていくようなそんな感覚がある。
家族団らんや贅沢な生活をすることと幸せがイコールとされなくなるのではないかと思う。

アバランチの作中で「なぜアバランチという組織が支持されていると思いますか」という問いかけに「時代かな」と返すシーンがある。
何かの価値観が根底から覆ることはこれからも起き続ける。覆っている瞬間を見逃すと、たとえ同じ言語でも今使っている言葉が通じなくなるような気がする。

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