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わたせが製造した夢のリゾート

湿度が高い日が続いている。少し動くだけで汗がにじみ、ぬぐってもぬぐっても乾いた感じがしない。ひどいときには肌がかぶれてくる。空気がヌルっとしていて重たい感じ。ましてやマスクもしなきゃなんないなんて、ほんとうにクソである。

4、5月にたまにある夏日は、気温高くてもそんなにストレスではない。むしろ積極的に外に出たくなる気分になる。空気が乾いていて、汗もスッと乾くからだ。夏のなにがイヤかって、気温の高さじゃなく湿度だ。

こんなとき、わたしは、わたせせいぞうのマンガ「ハートカクテル」の世界にいきたいとおもう。

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「ハートカクテル」は一話完結の短編集だ。どの回も都会風の主人公によるトレンディな話で、この作品で描かれる夏はこんなである。

ボクはライトビールとコールドビーフサンドウィッチを食べた。
テーブルの上のビールが3本並んでその3本の影が5度移動した時
「そろそろカノジョがやって来る頃だよ」とカモメが教えてくれた
(Vol.74 カモメが連れて来たカノジョⅠ)

夏の日に、この主人公は遠距離恋愛の相手である女性をまっている。汗もかかずにさわやかに、優雅に、レストランの外の席にいるのだ。汗疹や湿疹も無縁な世界。マスクももちろんしていない。ああ、羨ましい。

このマンガは80年代中頃に雑誌『モーニング』で連載していた。現在、地球温暖化で気温は上昇しているといわれているが、もしかして実際に、昔の日本の夏はもっとさわやかだったのか? いや、それはどうも違うようだ。今週6月8日の日経新聞夕刊にわたせせいぞうのインタビュー記事が掲載されていて、こんなことを語っていた。


「(ハートカクテルの)連載の途中までサラリーマンと漫画家の二足のわらじを履いていました。営業の数字にため息をつきながら、現実逃避した先が『ハートカクテル』。いわば夢の世界を描いたのです」。主人公は日本人の男女だが、寂れたアパートの4畳半ではなく、米西海岸を思わせる無国籍風のしゃれた街が舞台だ。 ※太字は引用者による。以下、同じ。

そうかそうか、さっきの紹介した描写も、クソ湿度の日本の夏を描くというより、その逃避として妄想した、カラっとしたオシャレな西海岸風の夏だったのか。もう一か所のこの記事の引用をする。

当時は背伸びをした夢を抱いても、いずれかなえられるという希望があった。僕の夢を読者も共有してくれた。心に余裕があった時代ですね」。近年はそんな80年代のムードに憧れる若いファンも増えている。

ここ何年か、わたしも含むリアルタイムで経験していなかった世代に、80年代のトレンディな邦楽が「シティポップ」なんて括られ方をしてよく聴かれている。再発見された80年代的なムードが、なぜいま支持されているのか。

わたしは、最初に「「ハートカクテル」の世界にいきたいとおもう。」と書いたが、そこには、ぜったいに行けない理想郷に憧れる気持ちがある。

80年代当時も、「ハートカクテル」は「夢の世界」だった。けれど、わたせがいうように「当時は背伸びをした夢を抱いても、いずれかなえられるという希望があった」。80年代を謳歌した恩師が「バブルのころ、湘南が西海岸のようにみえた」といっていたことがある。順調に経済が成長していたころ、わたせの「夢の世界」は現実味があったのだ。

それから、40年経ったいま、わたせの「夢の世界」に現実味はない。もうぜったい行くことできない100%の夢の風景だ。それゆえの強い憧れ(またそれは捻じれヴェイパーウェイブというジャンルにもなって)が80年代的なムード再発見の動機になっている。

仮構のリゾート感。そこへの憧憬は、コロナ禍でなにもかも中止になった空っぽの2020年夏、いっそう増している。

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