見出し画像

小言のこごと、その5

あなたにとっての本のイメージが「苦手」ならば、私にとっての本のイメージは、「幼い頃からの友人」かも。



GENERATIONS from EXILE  TRIBEの小森隼さんがTOKYOHEADLINEで連載中のコラム、「小森の小言」。

第57弾の小言は「本」についてでした。


あなたにとっての「魔法のアイテム」は、人として人らしく生きる為の手助けの手段でもあるのね。

いつだか別の場所で彼が本を「魔法のアイテム」と称していたことをふと思い出した。

本は彼の頭の中で新しい世界を作り出せるし、彼の世界を着実に広げている。彼が彼越しに読む書籍達は、もしかすると私が見るよりうんとカラフルに見えてるのかもしれない。

中学時代は英語の先生とコミュニケーションが取れなくて授業をサボった事もあります。(授業をサボって窓際でずっと空を見上げていた自分がカッコいいとその時は物凄い勘違いをしていて、クラスメイトそして先生にご迷惑をおかけした事を今ではとても反省しております。)

あなたっていうひとは、本当に可愛い人間だな!

彼が度々教えてくれる過去の失敗達は、いつもなんだか可愛らしくって私は好きだ。英語への諦めと、当時のセンチメンタルと、大人になってからの大後悔と。そういうの全部、全部だ。(英語の先生、きっとコラムを読んだら思わず笑っちゃうんじゃなかろうか)


私達は、コミュニケーションを取らなくては生きていけない。


話すこと・聴くこと、綴ること・読むこと。
言語としてのコミュニケーションって私達がこの世に生を受けた頃にはもう当然あって、だけどその複雑怪奇さ難しさにはいつだってひとは悩まされている気がする。子どもは勿論、大人も、年老いたって誰もが言葉のキャッチボールを交わす上で過ちを犯す事は当然あるし、伝える為の自分の辞書の頁が少ない者は感情に任せて拳を振り上げてしまう事だってそう少なくはない。


そんな人間の永遠の課題を少しでも紐解く様に本の魔法に触れる彼の在り方は、なんというか光なんじゃないだろうかと私は思う。知らない言葉や言い回しは必ずひとつひとつ調べる、物語に戻る、ちょっと眠たくなる、また物語に戻る...

「本来の3倍の時間は掛かってる」と彼は言うけれど、きっとそれは彼の生活に還すには当然必要な意味のある素敵な時間なのだ。言葉を受けて、心のフィルターと調べごとで知識を得る、そして彼の中に落ちてゆく。彼の愛するコーヒーの様に、彼が濾過した言葉達はちいちゃな雫の様にひとつひとつがカップの底に集まって、満たされて、いずれうんと「彼自身の言葉」として香り豊かに活きる。

そんな過程がどうしたってうつくしいし、きっとその手助けをする「魔法のアイテム」だって喜んでる。私もそうやって本に助けを求めたいな。


そして、そう、

きっと生きている間に世の中の本全てに出会う事は不可能だから
貴方が手に取って読んだ本ってかなり運命的な出会いだと僕は思います。

彼は本との出会いをこう伝えているけれど、実は今までの私の人生の中で彼を経て出会った本が沢山あって、もしや、もしかすると、彼は誰かと本の運命を繋ぐ魔法を既に使えるのでは、と私は踏んでいる。


パフォーマーでスーパーMC、ラジオパーソナリティとダンスの先生。コラムニストに加えて、魔法使い。あなたはなんだって出来る、一体何者なんだろうか?



気が付けば幼い頃からずっと、本は私にとっての友人のひとりだった気がする。



まだ幼稚園に上がる前くらいの頃、恐らく生まれてはじめて好きになったのは「ふゆのよるのおくりもの」という絵本。

双子の子ねずみのティモシーとサラが、家族と共に過ごすとあるクリスマスの物語。細やかで可愛らしい絵柄と終始やさしくて、温かくて、ほんの少しファンタジー混じりなストーリーに、何度も何度も母に「読んで」とねだった記憶がある。どんな絵本を読んでも、どれだけ買い与えられても、何より母に読み聞かせて貰ったのはこの本だった。


小学生の頃、友達からのドッジボールのお誘いを断って休み時間にひとり駆け込んでいたのは図書室。

こまったさんシリーズとわかったさんシリーズ(当時から既に食べ物が出てくる作品にとにかく弱かった)、くまのこウーフ、リボンの騎士、名探偵清水清志郎事件ノート、火の鳥、ディズニー文庫、パソコン通信探偵団事件ノートにいちごシリーズ...
「ここ、全部制覇するねん」と、小学生ながらに図書室の中の自分より背が高い本棚達の一角に目星をつけて、あくる日もあくる日も本を読んだ。

本の中だと私は名探偵の家の隣に住む三つ子の長女にだって、黒魔女見習いにだって、怪盗にだってなれるのだ。そして徐々に本棚の中に「知っている本」が増えたる快感たるや!読まない理由がある筈がない、楽しいんだもの。

もっぱら日本の作品にばかり触れて敬遠していた「ハリーポッターシリーズ」も、一度読んだ途端にたちまち虜になって、最終巻は父に頼みこんで発売日に本屋さんに向かった事が懐かしい。あの時の私の気持ちは、もうすっかりハリー達と共に戦い抜いたホグワーツの生徒のひとりだった。



中学生の頃、よく一緒に居た友人を傷付けてしまった事を機に、1週間クラスの誰もまともに口を聞いてくれなくなった時期があった。

数週間後に他の友人越しに教えられた理由は確か、「いつも通り友人の好きな人の靴がある事を友人に教えたから」だったと思う。私は優しくないからか、未だにその理由を噛み砕け切れていない。
突然みんなが離れていって、ひとり近付いて来たかと思うと「早く謝りなよ」と急かされ、理由が分からないから教えて欲しいと謝ると「分からないなら考えて出直せ」と叱られるの繰り返しで、すっかり参ってしまった。
1週間経つと何事も無かった様に友人が話しかけて来た事を機に、みんなが「いつも通り」に戻ったけれど、そんな困惑まみれの時期も私と変わらず接してくれたのはやっぱり本だった。

毎日休み時間に逃げる様に駆け込んだ、教室と同じフロアの図書室で出会った本。本棚の隅の、その更に隅の隙間にひっそり隠れていたその薄い文庫本のタイトルを、私はもう覚えて居ない。
主人公は男性を愛する男性、舞台は現代より少し昔のイタリアだった気がする。ある日何処の誰を媒介したかも分からないまま性疾患に罹患した彼が、絶望し、己の人生に悲嘆し、息絶えるほんの少し前までの日々を綴った作品。
その時の自分の独りぼっちと相まって、図書室のみならず、借りてお風呂の中でも、眠る前のベッドの中でも泣きながら読んだ。当時主人公の生き様を読みながら、もしやこの世には希望など無いのではと絶望した記憶がある。(主人公の彼には来世で絶対に幸せになって欲しいばかりです)

同じ頃に東野圭吾さんや有川浩さん、湊かなえさんに愛する重松清さんの著書達、そして何より、多島斗志之さんの「症例A」と出逢う事になる。



そろそろ図書室の文庫本にも惹かれるものが少なくなって来た、なんてかなり生意気な事を考えていた頃に偶々出逢ったこの本は、実は今私が就いている仕事を選ぶきっかけのひとつになったりしている。
小森隼さんは本との出会いを「運命的」と称していたけれど、就職した後に「症例A」と職場の蔵書棚で約10年振りに再会した時、私はあるな、と思った。
運命って、多分本当にあるんだよ。


高校、大学と年を重ねる毎に読む頻度は減れど、母の蔵書達や図書室、図書館で本を手に取る機会は変わらずあった。いつだか母に「あんたは本を読まんと生きていけんやろ」と言われた事があったけれど、あながち嘘では無いかもしれない。

私は立派な読書家でもなければ、本を突き詰めた何者という訳でもないけれど、それでも本という友人がくれる世界に、どうしようもなく生かされているのだと思う。


画像1

これは社会人になった今、私の手元にある本達。



随分と量が減ったけれど、何より1番に変わったのは手に取る本の種類だ。
昔は何故だか物語に固執していた。手に取る本の全てがファンタジーであれ、否であれ、とにかく創作された文学。誰かの心の中で生まれたフィクションに魅了されていたのだ。
きっと私は、せいせいするような現実ではなく、他人の人生を生きてみたかったんだと思う。


頑なだった頃から時を重ねて、休み時間の図書室での読書が休日の喫茶店での読書に変わってからだろうか、大人になって気が付けば自伝にコラム、俳句まで手に取る様になった。
物語に執着していたあの頃の私は、今の私をどう思うだろう?分からないけれど、なんというか私という人間はほんの少しだけ柔軟になれたのでは、と我ながら思う。
家族や親しい人に囲まれた世界から飛び出して、私の世界がほんの少し広がった分、私の友人こと本の種類も幾重に広がりゆく。そんな事がなんだか今は、凄く楽しい。


私はこの先の人生でどれだけの本と出会えるだろうか?

時代物の小説、詩集もいいな。洋書..は多分御縁は中々無いだろうけれど、いい。全部良いのだ。今のご時世、どうせ長生きしなきゃいけないのならば、折角だから数多の本達と出会いたい。まだまだこの世には私が知らない言葉の形が、物語が、伝え方が豊かにある。これから出会う本という友人達がくれる景色に、気持ちが元気な今、堪らなくわくわくしてしまうのだ。


親愛なる本達よ、いつも本当に有難う。
そしてこれからもどうぞ宜しく。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?