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終わらないものを終わらせないために

名古屋観光を満喫した後、私は友人と三重県四日市市に向かった。純粋に四日市ぜんそくのことを知りたかったのと、過程が違えど、一度ふるさとを壊されてしまった人たちがその後どのように生活していったのかを知ることで大熊町との向き合い方のヒントを得られるのではないかと思ったからだ。

四日市という場所は、今までに味わったことのないような雰囲気を醸し出していた。日中、道には家族や学生、会社員っぽい人たち、車でいっぱいだったのに、夜に友達と歩いていたら、もう19, 20時?くらいにはちょっと怖くなるくらいシーン…としていた。住む場所というよりかは、働きに来る場所、遊びに来る場所なのだろうか。言葉にしづらいのだが、本当に不思議な場所すぎて、どのようにして今日の四日市ができあがったのかをもっと知りたくなった。

四日市でまず向かったのが「四日市公害と環境未来館」だ。とても広くて、綺麗な施設だった。私たちが行った時、ちょうど判決50年展がやっていた。判決50年展は、当時の子どもたちの視点で四日市ぜんそくが語られていた。どんよりした天気、淀んだ空気、ススで黒くなる洗濯物やたたみ、黄色いマスク、全校生徒による乾布摩擦、6回以上のうがい、ぜんそく運動、日本一周マラソン…何となく違和感を持ちながらも子どもたちが当たり前と思わされてきたこと。色んなことに好奇心を持ったり、何でもかんでも「これは何?あれは何?何でそうなるの?」と質問したがる時期に、「経済成長のため」「日本の発展のため」との一点張りで返されてしまっていたことが本当に辛いというか…。子どもたちの「何で?」「どうして?」にこそ、世の中の問題点や、それらを改善していく希望を表しているんじゃないのかな?それを、子どもが純粋なことを良いことに、「大人の都合」な返答で済ませてしまうなんて。本当にそれで明るい未来を築くことが出来ると思っていたのだろうか?でも大人たちの気持ちも理解できる。お国のためというよりも、彼らには家族との生活があったから、事実を隠そうとすることに必死だったんだろうな。家族との生活のために家族の健康や自分たちの生活環境を犠牲にしていて、何だか矛盾しているけれど…。でも自分も親だったら、同じことをしていただろうなと思う。

一通り展示を見て感じたのが、思った以上に短い期間で呆気なく裁判が「終わって」いたことだ。「本当に『終わった』のかなあ」とモヤモヤしながら展示を見ていたら、館内のスタッフの方が何か察したのか、「何かあったら何でも言ってね」と話しかけてくださった。私はすかさず「本当に5年で『終わった』んですか?」とお聞きした。その方の話によると、やはり大人の都合で「終わらせた」という。明らかに市民の健康に影響を与えていることから、工場にはもはや勝ち目はなくて、それだったらさっさと負けを認めて補償金を払っちゃった方が良いとのこと。工場は当時大儲けをしていたので、補償金の金額は工場の経営には全く響かなかったそうだ。これを聞いて、裁判っていうものは勝っても負けても本当に虚しくなるものだなと思った。四日市ぜんそくは金によって「終わって」しまった。

でも展示のなかには原告だけでなく、被告、弁護士、医師など、様々な立場の方の正直な気持ちが残されていた。一つ一つ読んでみると、どの人も、自分が被った被害だけでなく何となく加害性を感じているのではないかと私は思った。自然界を破壊しながら経済成長や開発の恩恵を得ていた、という加害姓を。それを考えると、やはり四日市ぜんそくも終わっていない。終わらない。しかし、四日市ぜんそくの語り部についてスタッフの方に聞いてみると、語り部にも高齢化が始まっており、そして中には語らない・語れない人もいるそうだ。このままでは本当に終わってしまうのではないかと私は悲しくなってしまったが、スタッフの方たちが、当時の人たちの辛さ、失敗、後悔、学びを伝えていく活動をしているそうだ。そうやって終わらせないようにする人たちが、これからの四日市に必要なのかなと思った。

どこの地域にも見られる「負の『見えない(見せない)』化」現象。展示を見ていて「不思議だな」と思ったのが、塩浜小学校という学校の校歌の歌詞が変更されたことについて、当時の生徒たちが惨めな思いをしていたことだ。その当時の校歌のなかでは「工場は日本の希望の光」とされていた。その歌詞が後に問題とされ、工場を思わせるワードは消去されていた。私だったら、「工場に散々苦しめられてきたから、こんな歌詞の校歌はもう歌いたくない!」と感じてしまうのではないかなと思った。でも、その歌詞の校歌を歌うからこそ、その当時の友達や先生との学校生活の思い出が思い浮かんでくるから、特別だったのだろうか。当時生徒だった人たちが、どうして変更前の校歌が好きだったのかお聞きしてみたいなと思った。一方で、四日市市市歌にも工場を思い起こさせるワードがあるが、変更されずにそのままになっているらしい…。まずは子どもたちから「負の『見えない(見せない)』」化を図ろうとしているのだろうか、と疑ってしまう。

たまたま話しかけてくださったスタッフの方は、福島にもよく訪れるそうだ。水俣に行った時とは違って、自分で行く場所を決めたりしていたので、四日市では誰とも繋がることは出来ないかなと思っていたけれど、こうやってご縁があって繋がることが出来て本当に嬉しかった。次回四日市に行った時には、そのおじさんに四日市を詳しく教えていただきたいなあ!

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