論理とは主体


まだ勘違いしてる人がいるワケだ。
どんなに勉強したって論理は育たない。
知識は元にある論理を裏付けるパーツであって、
論理が無ければその知識を付ける筈の軸が存在しないと。
身に付けた筈の知識はヒラヒラとどこかへ飛んで行ってしまうだけだ。

当り前だが論理は勉強するより遊んだほうが身に付く。
因果関係、物理法則を体感し、こうなればこうなると理解する。
感性が豊かなら、体感、実感したそれが知性と直結すると。
そういった自分の基礎を作らない限り、どんな知識も身につかない。
何千時間勉強した所で「勉強した」というプライド以外は育たない。
そうなれば「勉強」が単なるファッションになる。
見栄の部分、プライド、詐欺ツールになるだけだ。

しかしその詐欺ツール化した学力というファッションが重宝された。
学歴主義はそういうもんだろう。
知識偏重は事務には役立つだろうし、ルーチンワークにもいいだろう。
同類の群の中でのシンパシーは得られて安心は買える。
しかし、物事をグラデーションじゃなくアイコン化し、
ワードに引っ張られる形で事象を理解しようとするとどうなる?
その結果、詭弁、綺麗ごと、メディアや政治に踊らされると。
詐欺師が有利な社会になる。
嘘つきに騙され、煽動され、また同時に自分も嘘つきになるのだ。

自分の世代は「横文字や専門用語を並べれば賢い」みたいな風潮があった。
未だにそれを実践している連中もいるが、
そもそも言語は伝達するのが目的で、本来なら賢さを演じる必要は無い。
スラングだろうが造語だろうが、重要なのはニュアンス。
判り易く説得する方が重要であって、ワードは単にショートカット機能だ。
小難しいワードを使うのは詐欺のテンプレでしかないと。
なので、小学生を説得できるのが本来の言葉選びだ。
これを本質的に観た場合、池上彰より狩野英孝の方が賢いように感じる。

素直に感動し、かっこつけず、見栄を張らなければ多分誰もが賢くなれる。
ただ、それが難しい。
優位性をひけらかしたがるバカの方が圧倒的に多いからね。


おしまい。

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