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☆58 太蒼山の陵墓

 十一話の冒頭は、鎏金宴の事件からしばらく過ぎた頃、永安城下の一角で仙楽人たちが何の不安のなく暮らしている場面だ。子どもたちは路地を走り回り、老人は木陰で昼寝。通りを行き交う大勢の人。商売人だろうたくさんの荷物を積んだ馬車に乗るのは、もう永安人か仙楽人かもわからない。郎千秋の両親が願った世界が、まさに実現された光景だ。
 そこから遠く離れた荒地が映し出されて、そこを飛ぶ銀の蝶、その蝶が通り過ぎた所の物陰に、深く掘られた洞窟がある。奥まった場所には、三重の棺の中に横たわる芳心国師、その傍に郎千秋とお付きの武官だ。

 芳心国師であった謝憐が、どうやってここから脱出できたのか。直前に蝶が映り、棺の中で一時的に僅かな意識を取り戻した謝憐が「誰だ。誰がそこに…」と言うので、花城が助けに来たという方もおられるが、それは違うと私は思う。この時点での花城は、まだ芳心国師の正体を知らないからだ。
 蝶は穴の中に入っていないので、国師がこの場所に埋められたことさえ知らなかっただろう。仮に知ったところでそれが謝憐だとは思ってもいないので、助ける道理がない。
 これはやはり、意識の混濁した謝憐が、郎千秋たちの立ち去る小さな物音を聞きつけて、言っただけの言葉ではないかと思う。その後もう少し意識がはっきりしてから、自力で脱出したのだろう。

 仙京に戻った謝憐は、君吾に鎏金宴の顛末を話す。他の神官たちは蚊帳の外だが、あの無責任な噂好きの彼らのことだ、いずれ何処からか話が漏れて、大いに騒ぐのだろうか。謝憐も君吾も自分からは話さないだろうが。
 謝憐は、郎千秋と今後どのような決着をつけるかよりも、別のことを考えたいと言い、地師が花城の下へ間者として送られていたことについて訊く。「先に手を出してきたのは花城だ」と君吾。「確たる証拠がないため、私は明儀[ミンイー:地師のこと]を鬼市へ送り込んだ」。
 謝憐以外の全ての神官に花城の間者の可能性がある、という。謝憐が外れているのは、単に彼が三度目の飛翔を果たす前から、探られていると察知していたからだろう。地師は十年前から花城の下にいたので、それより前ということになる。
 花城に気を許し過ぎるな、と君吾は改めて謝憐に注意を促す。
「三界の平和のためにも、危険は犯せない」

 仙楽宮は正門が花城によって別の場所に繋げられてしまったので、封印され入る事ができない。謝憐はそれを見ているうちに、彼が幼い頃に住んでいた宮殿を思い出した。謝憐は走り出し、戚容の洞窟で起こったことを全て吹っ切るかのように、下界に向かって飛び降りる。
 謝憐が降り立った場所は「太蒼山[たいそうざん]」という。この場所に関する記述を日本語版原作小説から抜き出してみよう。

 この太蒼山にはかつて仙楽国皇室の道観ー皇極観[こうきょくかん]があった。
 皇極観は巨大な道観群で、太蒼山全体に分布する宮観や廟宇には複数の神や仙人が祀られていたが、それぞれが見事に調和していて美しかった。主神は他ならぬ神武大帝で、その金殿は最高峰にあった。そして、往時は絶頂期を迎えていた太子殿は次に高い峰に位置していたのだ。
 八百年前、太蒼山の山中は至るところすべてが燃え立つような楓の林で、景勝地として名を馳せていた。楓の林道は往来する信徒たちで埋め尽くされ、あちこちが人並みでごった返していた。

 謝憐が降り立って最初に見ている光景は、太蒼山が賑やかだった頃の思い出だ。燃え立つような楓の林。行き交う人々。武術の訓練に励む少年たち。鞦韆[しゅうせん:ブランコのこと]に乗る少年。そしてそれを楽しげに見る幼い謝憐と皇后。
 幻は消え、暗く鬱蒼とした森のような光景が広がる。謝憐は、時折芳心剣でそれを切り拓きながら、道なき道を登っていく。
 山頂に着く頃には、陽も落ちかけていて、そこには柱と屋根だけが残された建物がある。かつての太子殿だろう。
 傍の古井戸の中へ、謝憐は飛び込む。着いた先は仙楽古国の陵墓だ。謝憐は奥に進み、墓室へ入る。謝憐の両親が眠る場所だ。何か供えられる物をと探すが、急に思い立って来たので、袖の中には饅頭さえ無い。

 棺に寄りかかり、亡き母に戚容のことを話す謝憐。と、その時、何処からか微かな泣き声がして…。
 この後の展開については、今は触れないでおく。戚容の着ているものは、十七歳の謝憐が神武大通りで着ていた衣装だ、ということだけ書いておこう。

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