懐疑・自問自答・お前やっとけ 〜村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』33~

高度資本主義への懐疑とそれを生きるという自覚が、この『ダンス・ダンス・ダンス』の主題だと思うものの、そんなふうな感想を聞いて誰か面白く思うものなのか、少し考えた。

要するに「世の中がクソだってことは理解できるけど、変えることは難しいから、何とか小さな恋でも見つけて楽しく生きるのさ」というメッセージが聞こえて来なくもないこの小説を、もっとポジティブに読むとしたら、それはどのようなもので、どう表現できるのかという、難しい課題を考えてみたのである。

すぐ疲れてやめた。

相変わらずゴミ出しはあるし、グループホームにパンツとパッドは届けなくてはならないし、子どものスイカに多少の金銭を入れなきゃいけないし、昨日までが締め切りだったシステムの登録ボタンを押すのを忘れていてパソコンを立ち上げなければならなかったし、一つ一つはさほど難しいことではなかったものの、高度資本主義のことなんて忘れてしまった。

物語も終盤にかかり、ある程度全体像が見えて来ると、現れて来るある種の主題は、言葉にしてしまうと凡庸なものとなる。読んでいる時のときめきや興奮が伝わる言葉がないのだろうかと探すものの、それは所詮言葉であって、感情そのものの動きをダイレクトに伝えるものではない。

昔から、こうした自問自答をすることで、他の人の発言を先回りして封じる癖がある、と友人に指摘されたことがある。確かにそうかもしれない。あの人はああ言ってる、この人はああ言ってると整理していく間に、本当は書けたはずの文章が、手の中から逃れさってしまう。それどころか、やましさのようなものを他人に振り撒き、素直に自分の感情を書こうとする試み自体を潰してしまう。これは、もうやめようと思った。

やっぱり、高度資本主義への批判や懐疑が、『ダンス・ダンス・ダンス』の僕からは発せられているのだし、それでいて、そうした時代がもたらす恩恵のようなものを拒否するわけでもなく、それなりに乗っていこうとする振る舞いもある。矛盾とその解決が、知性的な隠遁であってもいいじゃないか。そう思ったんだから。

五反田君が帰り、また普通の日常が戻ってきた。五反田君から、折り返しのお礼の電話と、組織に「僕」がハワイで寝たジューンという女子のことを訊いてみたという。しかし、その女子は3か月前に辞めているということらしい。

「僕」は相関図を書き出してみるが、本当のことは何もわからない。北海道のいるかホテルのカウンターにいた女性「ユミヨシさん」に「僕」は会いたいと思い、電話をかけてみたが、出なかった。待つしかない、「僕」は思った。

五反田君とはしばしば酒を飲んで、軽口をたたいている。五反田君が欲しいものは「愛」だ。記者会見で、そのことを言ったらノーベル賞をもらえるんじゃないか、と「僕」は言う。

ユミヨシさんとは時々電話をした。ユミヨシさんが、ほかの男、例えばスイミングスクールの講師とイチャイチャしている妄想があたまから離れない。

ユキとも会った。マセラティに乗せた。しかし、途中で気分が悪くなったという。このマセラティには悪い気がある。ユキはそう言う。不吉なこと、いけないこと。なんなら車を沈めてしまってもいいとさえ、ユキは言った。

ユキの具合が戻るまで、話をした。ユキは、父母からのお金を受け取ってほしいという。そうであれば、自分も気が楽になるから、と。しかし、「僕」は「友達は金では買えない。ましてや経費では買えない」と告げる。

それはたぶん君が僕に何かを思い出させるからだろうな。僕の中にずっと埋もれていた感情を思い起こさせるんだ。僕が十三か十四か十五の頃に抱いていた感情だよ。もし僕が十五だったら君に宿命的に恋していただろう。それは前に言ったっけね?」
「言った」と彼女は言った。
「だからそういうことだよ」と僕は言った。「君と一緒にいると、時々そういう感情が戻ってくることがあるんだ。そしてずっと昔の雨の音やら、風の匂いをもう一度感じることができる。すぐそばに感じるんだよ。そういうのって悪くない。それがどれほど素敵なことかというのは君にもそのうちわかる」

p.231

詳しくはマガジン『ある社の人間模様』シリーズで書こうと思うが、チーム如月の温度差は、極めて大きく、未婚者と既婚者の差異が浮き彫りになった。

既婚者は、子どもを盾に仕事を未婚者に押し付けようとするし、未婚者はそれによって自分の婚活ないしは生活の安寧が脅かされると不満を言う。この状況は男女ともにあるが、女性の方がまだ鮮明にこの構図が浮き出る。

私としては単純に夫と仕事を二で割ればいいのではないかと思うが、そうもいかないのだろう。私とて、日々のルーティンシャドウワークを、2で割ることの難しさを感じている。特に子育てにおいては、「お前やっとけ」と言われることの方が多いものであろう。私が言おうものなら、十中八九刺されるので、言えはしないが。

ご近所ママさんと先日話す中で、全体の合格状況の説明会のようなものに行った方がいいのか、と聞かれたが、夫からは「お前のようなものは言った方がいいと言われた」と笑いながら言っていた。これまた私が「お前のようなものは」と言ったら100パー刺されるので、言えはしないが、無駄に自己肯定感の強い男というものもまだ存在しているのだろう。

私が見る限りにおいて、自己肯定感があまりに外に出る人は、6割方仕事を完成させて、雑な仕様のまま、人に投げる人が多かったように思う。言うなれば、プラモデルを組み立てて、色を塗るのは人にやらせるタイプだ。プラモデルならいいが、システムは細部が重要であり、大まかな企画はただ強引であれば、ある程度は才能でできると思う。ただ、あれで完成と言われたら、大丈夫ですか?と言わねばならないだろう。

「君と一緒にいると、時々そういう感情が戻ってくることがあるんだ。そしてずっと昔の雨の音やら、風の匂いをもう一度感じることができる。すぐそばに感じるんだよ。そういうのって悪くない。それがどれほど素敵なことかというのは君にもそのうちわかる」(p.231)

そういうこと。


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