コミュニティを築くということ

大学に入って驚いたことのひとつに、「ひとり」が許容されていることがある。当たり前だけれど、講義が各々の裁量に任されるからいわゆるおひとりさまがとても多い。入学直後、めっぽうな美人さんがおひとり様シート(というものがわが大学の食堂には存在する)で淡々とラーメンを食べている現場に遭遇したときにたいそうびっくりしたのだけど、今ではおひとりさまでラーメン屋さんも動物園も行けるようになるのだから、人間とはわからないものだなぁと思う。

わたしが属していたゼミは、そんな「おひとりさま」が得意な人たちが集合していたコミュニティだった。別にそれは、その言葉が暗に示しているような悪い意味ではなく、あえて「ひとりでいる」ということができる人たち、という意味だ。「個」を強く持っていて、自分なりの「好き」を信じている。そして、他人の生き方に下手に左右されない。悩んだり、困ったりした時は頑なになるのではなく、ちゃんと各々の信頼できる人たちを頼ることができる。その生き方は同年代から見てもとても魅力的で、一緒にいても刺激を受けられる存在だった。

そういう存在たちといて気づいたのは、「自分と価値観が異なる人間を包含するコミュニティを築く心地よさ」だった。特に中学校や高校の時は、自分の興味関心から外れたものを持つ人たちはそれぞれで群れていて、それぞれは関わることがほとんどなかった。もちろん「好き」でつながるコミュニティは貴いし、それはそれですごく楽しい。けれども、別に必ずしも、いつでも意見が一致する必要はないのだ。考え方が違う人をあえて排斥したり、悪口を言ったりしなくても、お互いの好きや考え方を尊重しあえれば心地の良いゆるやかな関係性を築いていくことができる。それは、それまで既存のコミュニティに縛られて息ができなくなりながら「合わせていた」身としては、こんなに楽に呼吸していいものなのか!という枠を打ち破る体験だった。

大人になるからといって、それが簡単にできるようになるものではないのだとは思う。事実、いまだに高校生のような人間関係を強制してくる大人(わたしより長いこと生きているはずなのに)もいて、自分の気にくわない人間を堂々と排斥しているさまを見ると、なんだかとても悲しくなる。でも、そういう人たちは、きっと他者に寄り掛かることでしか、自分の居場所を見いだせないのだろう。自分は自分でいい、と割り切る強さがなければ、ここにいていいのか、と常に立ち位置を確認していかなくては生きてゆけない。

わたしは「おひとりさま」はできるけど、まだ「個」の次元までは行けていない。空気を読んで一人息苦しくなっていることだって少なくない。けれど、せめてゼミの中で見つけたコミュニティの在り方を、ほかでも築いていけるように少しずつ「個」を持って行きたい。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?