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水上勉『筑波根物語』より

「夜雨は四歳の時に業病にとりつかれた。佝僂病である。いわゆるせむし病といわれる病気で、脊柱が病んだため、足腰がたたなくなるという苦痛を伴う病気であった。」p4

「少年時のごくわずかの一時期をのぞいて、五十七歳で死ぬまで、夜雨は歩かず、起たず、大屋根の下で起居したまま命を絶ったのである。」p5

「私が、横瀬夜雨の名を知ったのは、ずいぶん古いことであるけれど、夜雨の生涯に興味をもつようになったのは、詩人としての夜雨が、明治中期から、大正全期にかけて発表した数多い詩が、すべてといっていいほど恋愛詩であり、中にはまったく夢みるような、それでいて哀しい詞句のちりばめられた詩が多かったせいである。(略)生涯歩くこともせず、起ちもせず、ただいざり寄るすべしか知らなかった病人の身で、恋の詩ばかりをうたいつづけた詩人の、心の背景に魅かれた。」p5

「夜雨は歩けるようになった頃に、よく散歩した。きまってゆくのは、大宝沼であった。(略)自由に歩くことの出来ない身に、水面を走る藻刈船の速さはうらやましくもあったのだろうか。夜雨は後年、下男を従えて、船を出してあそぶようになっている。」p14~15

「夜雨はこの頃になって、将来をはかなみ、いっそのこと死んだほうが、みんなに厄介をかけたり笑われないですむと思い、母にその決意を述べているが、波満は夜雨をやさしく説き伏せた。」p16

「この詩(※「神も仏も」)を眼にとめた河井酔茗は、いってみれば、夜雨にとっては、野の馬を見出してくれた伯楽である。(略)いわゆる中央詩壇の雄である酔茗にみとめられたのであるから、夜雨のよろこびはひとしおであったろう。」p19

「夜雨は「白き月」「年の暮れ」「母の膝」「真菰集」などといった詩を「文庫」に寄せた。滝沢秋暁はこれらの作品をよんで「宝湖の文は夜の如く雨の如し」と評した。夜雨がそれまでつかっていた宝湖や利根丸といった筆名を捨てたのはこの評言からである。」p20

「名実ともに中央詩壇の一人者となって夜雨は風格を備えていった。しかし、このことが、夜雨の作詩生活にとって、幸運であったかどうか。夜雨の身辺は「文庫」時代とくらべて急に華やかになり、閨秀詩人たちの手紙や、投詩がふえ、大宝の家へ訪れてくる女客も絶えなかった。」p45

「女であるからには、いくら絶望しても、長い歳月を思い焦がれてきた自分がいとおしくて、もし、夜雨にさえ、その詩に現われた強い情熱があり、手をさしのべる勇気があったら、いざりてすがる、佝僂の人を、かき抱く魔性も持ち合わせていたはずなのに。」p81

「おそらく十人を超す女性たちが、毎日のように、恋文をよせてきた。中には詩とも、日記ともつかぬ、哀恋調の文章を綴じた小冊子を送る者もあった。つまり誰もが、夜雨の傷心の模様を知らなかった。」p90

「後になって、夜雨を研究する人びとのあいだで、もっとも関心が示されるのはこの一カ月間の水戸生活の内容であるけれども、のちに、山田邦子が古河の詩友若杉鳥子に告白したところによると、二人は、一つ床に軀をよせ合って寝た夜もあり、あるいは邦子が約束どおり妹ぶんとして、夜雨のわきに床をならべてきよらかに寝た夜もあるという。」p112

「我には人は/電(いなづま)の/光の中(うち)に/来ぬるのみ/我には人は/電の/光の中に/去にしのみ」p125

「明治四十四年、三十四歳から、大正五年の三十九歳にかけて夜雨は、これといった中央詩壇での活躍をみせない。事件としては、畏友一色醒川が四十三年の十二月六日に死んだことであろう。」p141

「翌明治四十五年『夜雨集』が女子文壇社から刊行されているが、しかし、この頃から、夜雨は河井酔茗とも昔日のような文通もしなくなり、かえって遠縁にあたる結城の長塚節を訪ねて、「盆踊り是非論」などを地方新聞で闘わせている。節が盆踊りの必要を主張したに対して、夜雨は、廃止を叫んだのであった。」p141~142

「しかし、夜雨の人生にとって、特筆すべき結婚の橋渡しとなった地方誌「いはらき」木星欄の主宰がこの盆踊り是非論をなした四十五年三十五歳の十一月にはじまっていた。」p144

「小森多喜と横瀬夜雨が結婚したのは大正六年三月十一日のことである。多喜二十歳。夜雨四十歳である。」p152

「多喜は、結婚してみて、夜雨の複雑な性格や、妻だけにしかわからない好色な一面も知ったが、それで絶望を味わうようなことはなかった。二十歳の多喜はやさしい夜雨に愛されて生きることになる。多喜には、夜雨ははじめての男性であった。同時に、多喜は、夜雨にとっても、はじめての異性であったといえよう。お互いに知り合った性のよろこびも、この新夫婦でなければ知ることのできない歓喜であり、二人は口喧嘩をしたり、黙して語らないといったような日は一日とてなかったという。」p155

「詩作にも打ち込めなくなった夜雨は、「木星」欄の詩歌壇の投稿を選することと、寺子屋の村童たちに、今でいう社会科や地理、歴史、漢文、国語を教えるのを日課にして、多忙な一日を送った。(略)大正七年一月には、水戸好文亭で、木星記念大会がひらかれて、三十余人の県内文学者が参会している。この会に、野口雨情、山村暮鳥なども出席したので、夜雨ももちろん、出席した。(略)その夜、夜雨は大関五郎宅に泊って、夜を徹して文学を語っているが、いわば、この時期が「木星」欄の全盛期であり、夜雨も結婚後の降伏にひたっている絶頂期といえたであろう。」p155~156

「夜雨は、大正八年二月に長女糸子を得た。翌年一月十五日に父忠右衛門が心臓衰弱で死んだ。七十二歳であった。その翌々年、次女百合子の生まれた年の九月六日に、母波満の死に遭っている。波満も七十二歳であった。老衰死である。二人目の孫が生まれるうぶ声を納戸の部屋で寝たまま聞き、それから二カ月とたたぬ間の、夫を追うような急逝である。」p159

「昭和八年六月八日は、県立下館高等女学校に在学していた十五歳の長女糸子が、修学旅行の帰途急性盲腸炎を病んで急逝するという悲しい打撃を受けた日であった。悲報に接した夜雨は、呆然佇立して、声もなかった。糸子の死によって、夜雨はめっきりと老け込み、考えこむようになり、一歩も外へ出ず、書斎に閉じこもるようになった。」p164

「翌九年二月八日に急性肺炎にかかって、離れの間に寝かされた。(略)多喜は夜雨に雪をみせてやろうと思って縁先の障子をあけた。「きれいな藤の花だな」と夜雨は言った。どこに、そんな花が咲いていただろう。(略)花はなかった。夜雨は、それからまなしに苦しみはじめた。洗面器に一杯の血を吐いた。(略)午前九時二十分の永眠である。」p165~166

「横瀬夜雨は、大宝村の横瀬家からわずかに離れた家代墓地に葬られている。夜雨の墓石ではなく、横瀬家累代の墓とした碑の下に永眠している。今日その墓地をたずねても夜雨の墓はない。」p166


水上勉『筑波根物語』



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