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文章なんて、大嫌いだよ。

文章なんて大嫌いだ。書いても書いても正解がわからないし、そんな中でもがいてやっとできた記事が世に出ても反響がないときもあるし、たまに自分の中でよくできたなって満足できるような言葉をかき集められたとしても、もっと上手なひとの言葉でその自信なんてしゅんと消えちゃうし。

バズる、バズらない、PV、SS、フォロワー数。涼しい顔をしているふりをしないと自分が潰れそうになることもあるから、自分がライターとして仕事をするときはあまり気にしないように、見ないようにあえて自分を閉じ込めている。そうじゃないと「手先の器用な人が編んだらこんなに綺麗なマフラーができますよ」っていう見本写真を見ながら、手元にある穴まみれの編み目の毛糸の塊を見つめている気分になってしまう。


言葉を紡ぐ、なんて言えば聞こえばいいけれど絵や音楽と違ってある程度の日本語さえできれば「誰にも書ける」って思われがちなのも、うんざり。もう辞めたいって思いながらも書くことが好きだから辞められない!って胸を張って言えたならどんなにいいだろう。


平日はWebメディアの編集の仕事を、休日はフリーのライターとして生計を立てている。だから、「文章を書くこと」を生業にしている、と言っても嘘にはならない、はずだ。


こんなにもぐつぐつと文章に対して憤りを感じながらも、なぜ自分は書くのだろうと考えた時に、答えはいつも決まっている。それは本当のわたしが、思うこと・考えることは文章の中でしか呼吸ができないからだ。魚が水の中でしか、生きられないように。本音が息をすることができるのは、文字の中だけだから。


わたしは生まれてからずっと「半端者」だった。多分今も、だと思う。強調したいのは勇気があって、自分の思想がはっきりとしているからこそ畏怖と畏敬を集めるコミュニティの異端者じゃなくて、本当は誰にも嫌われたくないただの臆病な半端者だという点。類は友を呼ぶ、という言葉があるが、私の周囲には2つの相反するタイプの人間が混在している。ひとつ目のタイプは、なにかを守るためにいわゆるレールや学歴・安定を重んじるタイプで、もう一方はその真逆。自身の力やスキルを信じ、夢を持っている人たち。友人は少ないくせに、バリエーションだけは豊かで、人類をざっくり2つに分けたら完璧に各々が反対側に位置するだろう友人もいたりする。きっと後者に憧れながら、踏み出す勇気もなく前者でぬくぬくと生きてきたからこういう環境が形成されたんだと思う。レールの上、安全なところからいつも外に出たいと思って行動することができず、それでもなお集団の中に完璧に馴染むこともできずに大概本ばかり読んでいた。


どこに行っても居場所がない。電車に揺られながら、いつまで「フリーランスに憧れる、会社に馴染めない会社員」でいようかを考えたりもするけれど、きっとその足は次の日も会社に向かう。いつかは、という憧れは捨てきれないまま。


でも、すなくじらとしての自分の言葉だけは正真正銘のわたしだけの言葉だ。誰かの顔色を伺って作り上げたものでない、自分の内側にあるところからゆっくりと生まれてくるもの。ときどきだれかがわたしの言葉に呼応してくれて、あ、こんなところに居たんだねってちゃんと仲間を連れてきてくれる細くてきらきらした糸みたいなもの。綺麗なものだけが生まれてくるわけじゃないから、熱い鉄を打つように形を整えて、磨いて、世の中に出すわけだけれど、初めて自分の記事が世の中に出たあの日、「嘘じゃない」自分の居場所がようやく見つけられた気がした。


でも、嘘じゃない自分を曝け出して、誰にも見つけてもらえなかったときが、本当は一番怖い。声を出して話しかけてみても、その先が暗闇で、観客席に誰もいないような孤独を感じるときがある。もちろん、そう感じたことがあるのはきっとわたしだけじゃなくて、文章に関わる仕事をしたことがある人なら誰しもが通る道なのだろう。


だからこそ、声を大にして言いたい。わたしは文章が怖い。でも、自分の輪郭が見えなくなってしまうことの方が、もっと、もっと怖い。半端でもいい。手探りでもいい。私にできる形で、流した言葉の蝋をたどって、どんな形をした自分という蝋人形ができるのかを見てみたい。だからわたしは、今日もここにいる。大嫌いな文章と、向き合っている。








2021.12.29

すなくじら



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