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柚子を保護する

路地を挟んで向かいの家のおばあさんが、初春に突然死してしまった。

おばあさんとは生前、ちょくちょく顔を合わせた。窓越しだったり、塀越しだったり。挨拶したり、会釈だけだったり。

ある日、顔を合わすなり「ちょっと待ってネ」と言っておばあさんは部屋にとって帰り、いそいそと袋を手に戻ってきて、坊ちゃん達にどうぞと言って差し出してくれたのは鳩サブレーだった。親子で大喜びしていたら、その後何度も鳩サブレーをくれた。柚子とレモンを山ほどくれたのも、ついこの前だったはずだ。

決して恩着せがましい言葉を言うことはなく、むしろ若い人にあれこれ言ったら嫌われてしまうかしら…という遠慮が随所に感じられる、とても控えめな物言いをする人だった。いつもお菓子を下さるし、私としては最大限に友好的な姿勢を示したつもりだが、ほかの家の奥様達と比べれば距離を感じた。

捉えどころのない不思議な雰囲気ながらも、どの家の奥様よりうちの子ども達に良い子良い子と声を掛け、ひときわ可愛がってくれた。そんなおばあさんの突然の訃報を聞き、にわかに信じられなかった。


紆余曲折あって、最近になってその家を買った次の住人が、引っ越し準備を始めた。


私たちにいつも分けてくれた柚子の木は、切り倒されて駐車場になると聞き、私たちはがっかりした。

「おばあさんがとても親切だったので、思い出の柚子の木を挿し木で増やしたい。切り倒す時に枝をください。」

作業員の方と先週、柚子の木について立ち話をすることができたのでこう言ったら、「良いよ良いよ、枝ならいつでも入って切っていってね!」と返してもらえた。

ついに今日柚子の木が切られた。

今日切られるとは知らなかった私は、夕方買い物に行こうと自転車にまたがり、たまたま通りかかって驚いた。大きく茂った木はそこに無く、全部綺麗に片付けてあったのだから。

まだ枝をもらっていなかったのであわてていたら、作業員の方が気づいて声をかけてくれた。


「あんたあの時残念がっていただろう、根を残したし、今まで水に浸しておいたよ。たぶん葉が生えてくるよ。」と、大きかった柚子の木の、枝葉を全て落とした切り株を手渡してくれたのだ。

私は自転車を停め、家に戻って、慌ててバケツに水を張って切り株を浸した。どこに植えるかなんて後から考えれば良い。産み落とした後の沐浴から帰ってきた新生児を手渡された時に似た緊張感を覚えた。

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それから作業員の方は更に、葉や実が入った大袋を差し出してくれた。とても我が家だけでは捌き切れない量だ。急遽うちの路地を共有している四世帯の奥さまみんなに声をかけることになった。

まだ暑い夏の夕方に総出で集まった私たちは、誰とはなしにおばあさんとのエピソードを話し、故人を偲んだ。

長くこの大きな家に一人暮らしだったが、入居当初は旦那さんもいた。先に亡くなった旦那さんの後妻として入り、自身に子どもはなく、旦那さん側に子どもはいるらしいが疎遠だ。だからこの家の処遇が決まらなかったのだ。などなど、知らないことばかりだった。

私たちは柚子の木の跡地を呆然と見ながら、おばあさんの話をした。そして青い実を分け合って、最後の頂き物だねなんて言いながら大事に受け取った。

それを見ていた作業員の方が、ミョウガの苗も四世帯分に切り分けてくれた。柚子の木の根元に植わっていて、柚子とレモンやお菓子と一緒に、塀越しによく分けてくれたものだった。

みんな両手がいっぱいだ。立ち話している場合ではなくなってしまった。なんか色々もらっちゃったわねと苦笑いしながら各々の玄関に向かって歩き始め、散会になった。

それぞれに忙しいはずの奥様達が、みんな在宅していた珍しい日だった。

暮れかかった日に相対してまだ十分過ぎるほど蒸し暑かった夕刻の風景を、私は柚子の木と一緒に大切に記憶しておこうと思う。


そういえば、私はかつて、ホームセンターのバックヤードにいた桜の苗を買って帰ったことがある。

「売り時を逃してしまった上に、葉の勢いを失って店頭に並べられなくなったものですが良いですか?」と店員さんに確認された。一年草の苗みたいな、破格の値札がつけられていた。

今ではすっかり根も葉も伸ばし、春には数個の花を咲かせてくれた。我が家に来てくれてよかったと思っている。

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今回私は柚子を保護した。保護猫や保護犬を大切に育てる人はいるが、木を保護したがるのは私くらいじゃないか。

本当に育つか分からないから、一緒にもらった少しの枝を、念のため挿し木にしてみよう。


結構大きく茂っていた柚子の木が突然なくなって、きっと近所を飛んでいる蝶々さん達も困っているだろう。上手く育つまでちょっと待ってもらいたい。

新しい場所からの新しい景色を、柚子の木にみせてあげたい。元の場所から離れることわずか数メートル。

どうか育ちますように。


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