「常に推しの味方である」という意思

私は広くやや深いオタクである。
宝塚も、アイドルも、特撮も、2次元も好きだ。と、書くと察しがいい人は気づくが、2023年は自分のいる界隈が荒れに荒れた。色々な原因で。おかげで情緒が安定しない。ぐっちゃぐちゃ。

そんな中で、私の推しに対するスタンスは「常に味方」である。

こう言うと、「脳内お花畑」とか揶揄される。
そもそも「脳内お花畑」が悪だとは思っていないが、「脳内お花畑」と「常に味方であること」は、私にとって似て非なるものである。

常に推しの味方であることは、常に推しを全肯定することではない。
推しの悪いところを見なかったことにすることではない。

推しが何か良からぬことをしでかしたとき、無責任な擁護はしない。推しの行為を全肯定もしないし、証拠がある限りは推しの行為が事実無根でただの噂と否定もしない。
でも、推しが心を入れ替えて、反省し、再起を願うなら、私はそれを見守って、応援する。

もちろん、証拠がない、事実無根のスキャンダルが流布されたときは、推し全肯定、噂全否定のスタンスである。

推しが推しであるのには、必ず何かしらの理由がある。推しによって自分の感情がプラスの方向に動かされた経験は、紛れもなく現実である。
だから私は、常に推しの味方でありたい。
そう思えなくなったとき、推しはもはや推しではないから私は静かに離れるだけだ。


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