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公共意識という神

エスカレーターの乗り方が未だにわからない。
…とかいう話をすると毎回白い目で見られるが実際分からない。

あれは「立って乗るもの」なのか、それとも「全力疾走して乗るもの」なのか?

結局私は悩み苦しんだ挙句に全力疾走する派閥に加わる事にした。
というのも、エスカレーターで突っ立ってぼんやりスマホ見ながら乗っていたら、後ろの人から舌打ちされた経験が有るからだ。

という事は「立って乗る」は少なくともその人にとってはマナー違反だったという事になり、歩くまたは走るしかないという事になる。

そんでもってそれでは歩こうと思って歩いていたら、歩く速度が遅かったのか何なのかまた後ろの人に舌打ちされた経験が有る。
つまりこの時点で「立つ」「歩く」はエスカレーターの乗り方においてマナー違反の疑いありという事で、私はエスカレーターは全力疾走して乗らなければならない物なんだ、大半の立ってる連中はマナー違反の権化みたいな連中なんだ、と考えるようになった。

更に言うなら、東京で人ごみの多い道をぼんやり歩いていたらまた舌打ちされた経験が有るので、本質的に歩道とは歩いてはいけない物なんだとも思っている。
運動不足の解消も兼ねて、走れるところでは走ったほうが良いと考えるようになった。
(ただし私は車に轢かれた経験もあるので、マナー云々以前に車道を走ると死ぬという事は分かっている)

秋葉原辺りで歩道もエスカレーターもボカスカ走ってるクソみたいなメガネのオタクが居たら恐らくそれは私の事である。
つまり汗かいてポスター担いで走ってる連中は全部私であり、秋葉原とは私そのものなのだ…みたいな謎の異常な論理展開になってくるが、マナーとはそういうものなのかもしれない。

どうも私はこの日本流の「公共意識」というものに全然付いていけていないと感じる事が多々ある。

全員が全員の事を考え最適な行動をとる事こそマナー、常に「最適善」を考え、「最適善」に沿って行動する事のみが日本人…なのだろうか?
それを考えた結果私はどこでもドカスカ走り回るクソうるさい奴になってしまったが、マナーを守ろうとすると恐らく日本列島の全員がそうなるのが当然なのではないか?

この「公共意識」というのが苦手すぎて仕方がない。
歩道を歩いてる時点でその人は歩道の面積を占有してるんだから「邪魔」であるはずだし、車道を走ってる車は他の車の通行を阻害する時点で「邪魔」となるはずである。同じ理屈が全ての乗り物に適用できてしまうし、全ての人間に適用できてしまうはずである。

言ってしまえば「日本人が生活すると世界の裏側では過酷な児童労働で搾取される人が居たり、環境破壊が進んだりするんだから日本人は邪魔」だし、そもそも「地球上に人間の存在は邪魔」となるはずだし、もっと進めば「地球の存在は天体の運行に影響を与えるので邪魔」、「宇宙の存在は他の何かに影響を与えているかもしれないので邪魔」となるはずではないのか。

公共意識を徹底するならば、この宇宙を破壊するような方法を開発しなくてはならないのだと私はマジで思っている。

そういう事があるので、「公共意識」とはあまりド派手に徹底してはいけない物だと思っている。
単純に緩やかにそれを突き詰めるだけでも全体主義に繋がってしまうし、個々人の人権なんて完全無視で全員奴隷労働でOKという事になりかねない。

どうもそういうのが苦手である。
私はただ舌打ちされたくないがためだけに、今日も日本中を走り回っている。

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