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れいわ新撰組と正義論者

れいわ新撰組を観察していて考える事。

正義論が再び日本で大盛り上がりになっているのかなという雰囲気がある。
れいわ新撰組が議席を獲得するのは、これまで正義論者が投票していた投票先である旧民主党系勢力が軒並み保守の論陣へ迎合するような動きを見せているからであると私は思っていて、正義論者たちが新しい投票先を探した結果であると思う。

正義とは何か?みたいな話をもっともっと深く考えないと道を誤ると考えているので、正義論を軽々しく唱えようとは私は思わない。

「善いこと」だと思って実行したことが、実は別の誰かにとっては紛う事無く悪だったり、不利益だったりするのである。何が正義なのかは、正直な所よく分からないのだ。

正義はくすむ

政治の現場、国家規模での組織運営の現場においては更に「正義はくすむ」

ある国民にとって利益になる政策は、また別の国民にとっては害悪なのである。
全て国民に等しく利益をもたらすスーパー国益政策なんてものは事実上殆ど存在しないし、だからこそ政治とは「選択の技芸」であると私は考えている。
誰を選択し、誰を切り捨てるか、時にそれを冷厳に判断できなければ「最大多数の最大幸福」なんてのものは実現できないのだ。

れいわ新撰組の主張する消費税ゼロ政策などは確かに一見すれば国民全員に利益になりそうな気はする。
けど恐らくその財源を賄うために壮絶な公共福祉カットや、別の税率を大幅に引き上げる必要性が出てくるだろう。すると消費税がゼロになったとしても経済のバランスが崩れて、先進国中最悪水準の給料が今よりも更に下がってしまう事だってあり得る。

要は正義(と思われること)を重んじるあまりバランスを欠いているのだ。

善悪と功利主義

ある一面における正義とは別の側面から見ると容易に悪である事が多々ある。
善悪のバランスを正常に取っていくためには一見して善と思われる事でも当事者の利益を慎重に考えねばならないし、また一方で悪に見える事でも他の人間にとってどうなのか考えたときに悪と言いきれない場合も出てくる。

功利主義の原理に則るなら、「最大多数であること」「その集団における善として確からしいこと」である。
ここから考えた時、世の中に一定不変の原理として「絶対の正義」が存在するのではなく、常に流動し続け立場によって変わる「相対正義」しか存在しないという事は分かる。
例えば人を助ける事は一見すると絶対の正義だが、戦争の現場で敵兵を助ける事は明らかに悪だし、銃殺刑ものの反逆行為である。

正義と全体主義はよく似た香りがする

要は「正義」なんてものは元から存在しないのである。理想でしかないのだ。私たちは「正義」という名の絶対原理を信じているのではなく、常に個人個人の善悪の価値基準に従って相対的な判断を下しているに過ぎないんだ。

それが多様性に繋がり、それが組織の力、国家の力、社会の力に繋がっていくんだという事を、現在の左翼の人たちは理解してないんじゃないか…という疑義がどうしてもある。

そこで「正義」という統一価値基準の下に話をしてしまう事は、むしろ個々人の善悪の価値基準を真っ向から否定するという点で明らかに間違いなんだ。

何も考えずに正義論を振りかざせば、それは明らかに全体主義へと繋がる。
全体の利益(すなわち正義)が個々人の善悪の価値基準よりも優先されると考えるならば、社会は個々人の発言や意見発信を全て封殺して一つの正義の下に染まりきるしかない(ブラック企業の論理なんかもよく似てるよな)。

それこそ高度に統制された全体主義社会である。正義とは容易に多様性と対立してしまう極めて困った概念なのだ。

左派と多様性

そういう事を考えて左派をやってる人が殆ど居ないんじゃないかと、物凄く心配になる。

旧民主党系勢力の国会議員を見ているとどうも「正義こそが全て」みたいな考え方をしている節があって、そこに投票している人たちも同じような態度を取っている印象がある。
そして更に過激な正義を追求しようとしている人たちがれいわ新撰組に票を投じたのではないか…。

正義を重んじる事はそれ自体態度として悪いものではないけど、万人に対して成立する万能正義なんてものはこの世のどこにも存在せず、それこそ神学論争になってしまうのだ。

国家にせよ企業にせよ、組織というものは有りもしない万能正義で動かす事はできない。
誰かにとって善だが、誰かにとって悪である…そんなグレーな物事の中から、必死で善なるものの輝きを見つけて拾い上げ、それを論じようとする態度こそが私たちに求められているのではないかと思っている。

グレーな物を理解できる人こそが真の意味で「多様性の理解者」で、正義に沿って全てを執行する事ばかり主張する人を私は「正義論者」であると考えている。
前者がもう少し増えてくれれば、よりちゃんとした左派政党が日本にも現れてくれるんじゃないかなあ…と、そんな事を思う。

(もちろん、何でもござれの総合デパート政党である自民党ばかりが多様性を持っていてそれ以外の党がそういう人材の幅や厚みを持ってないのは悲劇であると私も思うけどね)

(追記: れいわ新撰組は多様性を肯定する包摂性を持ってるから重度障害者の方を議員として国会に送ったんだというご指摘があり、確かにそれならもうしばらくれいわ新撰組の動向は観察し続けても面白いかもしれないと思った。今後彼らが真に多様性を理解する政党に成長して行く事を期待したいと思う)

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