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慣れない化粧

80を超えたと思えない肌はツヤっとしていてシンプルに羨ましいと思った。彼女が愛用していた保湿ジェルをたっぷり染み込ませ、優しく肌に触れていく。化粧下地とファンデーションクリーム、ほんの少しピンク色の紅を合わせる。また、触れていく。今更、手が震える事も無かった。

「母はすっぴんを見せてくれなくて。」
「体調を壊して、ここ(老人ホーム)に来てからです、化粧をしていない母を見たのは。」

彼女が息を引き取るまでの数時間、共に過ごした娘さんがぽつり呟いた。そうか、知らなかったな。もう少しはやく…と思いかけて考えるのをやめた。彼女は己の意思を曲げずに生き抜いてきた。中心静脈栄養もいらないし、胃瘻も嫌。それに対し「本当は長生きしてほしいけど、母親の意思だから…。」と迷い巡る中、母親と対話を重ねようと努力していた娘さん。

彼女はこの場所を最期に選んでくれた。人の死に様は、生き様をよく映すものだ。それらを良し悪しで判断するのは野暮だが、彼女の死に様は格好良かった。

はっきりした二重まぶたと立派な眉毛。凛とした顔立ちの彼女の事が好きだった。「おはよう〜!」と声を掛けると「おあよ。」と微笑み、ヒラヒラと手を振ってくれた。会話中、唐突に「かあいいね。」と褒めてくれるので「◯◯さんも可愛い。」と伝えると「んふふふっ。」と笑ってくれた。

眉毛が素敵ですね、と伝えると「眉毛は化粧いらないよ。」と本人から聞いていたので、眉毛はそのままに、パッキリした赤の口紅を重ねて化粧を終えた。本当にきれいだった。今にも「おあよ。」と目をパチリ開けそうだ。娘さんも素敵だと笑ってくれた。

私は今、老人ホームの看護師として働いている。気がつけば5年目だし、何ていうかギャグみたいだと思う。ホスピタリティのかけらも無い私はこの仕事が大の苦手だ。それでも、忘れたくない時間が多過ぎる。


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