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誰とともに過ごして、その人に何を与えられるか

おそらく、猫は人間に「猫」と呼ばれていることを自覚していない。
また、違う猫に出会ってもそれも「猫」だとは認識していないであろう。

しかし、人間は「人間」と分類されていることを自覚している。
隣にいる人も「人間」であると認識している。

これも憶測であるが、猫には猫の経済圏やコミュニティはない。
猫同士が喧嘩しているところはたまに見かけるが、基本的には自分の居場所を見つけてスヤスヤ眠るか、人間にスリスリしておねだりするかだ。
端的に言えば、猫は周りの猫のことなんて気にして生きてはいない。

しかし人間はどうだろうか。
人間独自の経済圏やコミュニティがあるからこそ得られる豊かさもある一方で、他人の影響が大きすぎる生き物である気がする。
自分の行動が、誰かに伺いを立てることから始まることもあるが、よく考えるとおかしな話だ。



また、人間関係は単純なようで複雑だ。
人の繋がりは、強くて脆い。

「頑張っている人が好き」「一緒にいたら刺激を受けられる」という理由で繋がっていく素敵さもあるけれど、それは本当に繋がりと呼べるのだろうか。
その人と繋がっている、その人が好きなのではなく、その人、もしくはその人の名前がつけられた肉体が成していることが好きなだけなのではないだろうか。
頑張っているから好き、つまり頑張れなくなった瞬間に離れていくなら、それを繋がりと呼んでいいのか?という提唱である。

一般的な自己紹介がその典型だ。
何をやっているか(やってきたか)を延々と話しても、話せば話すほどその人自身から乖離していく。
肉体が成してきたことを評価してください、と言わんばかりに。
その人自身のことなんて、ある程度ともに過ごしていかないとわからない。

仕事やプロジェクトで一緒だったから仲良くなったけど、それがなくなった瞬間に関わりがなくなることもあるだろう。
僕も何度も経験してきた。
それは、お互いに「コト」で繋がっていた何よりの証だ。
「コト」に興味があっただけで、「ヒト」には興味がなかったのかも。


最近読んだ本に、「どんどん上昇していく思考は西洋的なものだ」と書かれていた。
ビジネスが典型例で、事業は拡大していく前提で議論されていく。
「〇〇な社会をつくる」と大きなビジョンを掲げ、その実現に向けて日々の時間をそこに捧げる。
それも一つの美学だろう。

また、それに賛同して同じ船に乗り込む人も多くいる。
舵を取る社長が行きたいところへ行くために、賛同した社員が一緒に漕いで進んでいく感じだ。
こうやって組織は成り立っているし、生き方の一つとして賞賛されるに値する。

しかし、こういった文化に疑問を抱き、それについていけなくなる人が少なくないもの事実だ。
仕事で心身に支障をきたし、また、人間関係がこじれていき、誰かの幸せを願って働くはずが自分が不幸になっていく。
はっきり言ってクソだ。
近くにいる人の幸せを願えないで、自分に力を貸してくれている人を傷つけて、何が会社だ。何が組織だ。何が経営だ。

フワフワした未来を、今の自分に足りないものを追いかけるために周りを巻き込んで、今の自分や今の世の中に不満ばかり唱えて、今周りにいる人たちの時間どころか感情まで奪っていく。
誰のためにやっているかわからないことに時間をかける人は、きっと近くにいる人のことなんて考えてはいない。
ペルソナに架空の人を掲げる時点で、身の回りのことが見えていないし、結局自分のことしか考えていない。


話は戻るが、頑張っていることを理由に繋がっている人は、相手が頑張らなくなった瞬間に牙を向け始める。
なぜなら頑張っている姿が好きだから。
それは、その人自身が好きなのではなく、その人の姿勢やコトが好きなだけ。

そもそも、「頑張る」とは何だ?
行動の手数を増やすこと?時間をかけること?自分を削ってまで何かに向かうこと?
なぜ「頑張る」ことで繋がっていかないといけないのか?
考えれば考えるほど謎が深まるし、きっと爽快な答えは得られないだろう。

「〇〇な人を増やしたい」「〇〇な社会にしたい」というのは、一見かっこよく見えるが、大事な枕詞が隠されている。
「自分の周りに〇〇な人を増やしたい」「自分の見えている範囲は〇〇な社会にしたい」というように。
この枕詞を伝え忘れているがゆえに、社会という大きすぎる対象と戦うハメになり、戦っている人自身が道を見失ったり無理をきたすことになる。
そもそも社会なんて見えないものなんだから、意識しすぎていいことは何一つない。


僕はまだ31年しか生きていないため、その31年の中での考えであるが、大切にすべきは「何かをやっている自分を応援してくれる人」よりも「何もなくなった状態でも自分のそばにいてくれる人」だ。
抽象的に言えば、一緒に進む人よりも戻してくれる人だ。
もちろん前者も大事なことは前提の上。

ゼロベースで付き合える人は、何をしたって付き合えるし、何もしなくても付き合える。
ただカフェや家で話しているだけで幸せなように。

SNSで集まるいいねの数より、目の前の人が自分にどれだけ時間を使ってくれたかの方が大切だ。
SNSで繋がった人の総数ではなく、そこから繋がりが続いた人数を数えた方が幸福度は上がる。
はじめましてが最後の出会いになる人なんて、そんなの繋がっているとは言えない。
とりあえずSNSを交換するよりも、本当に気に入ったならその人の場に何度も足を運んだ方が関係性は続いていく。

本当に繋がっている人は、それを繋ぎ止めなくたって繋がりは消えない。
会う回数が少なかろうが、遠く離れていようが、たまに会ってさえいれば繋がりを確認できる。
何もしてなくても、しばらく会ってなくても「アイツは俺の友達だ」と胸を張って言える人が本当の友達だ。


そして、自分が幸せだと思うことをやって、その幸せを大事な人に分け与える、そんな人間関係が自分を豊かにしてくれるのだと思う。
自分が幸せに生きている姿を喜んでくれる人の人数だけを数えて生きる、ということ。

自分のことしか考えていないような人に、誰のために生きているかわからないような人に自分の人生を委ねるな。
自分の行動について伺いを立てなければいけない人に対して、自分の貴重な時間を使うな。

何かを追いかけるのではなく、何かから戻ってこれる関係性を大事にしてほしい。
自分のことを本気で想ってくれている人がいるならそれでいい。

誰とともに過ごして、その人に何を与えられるか。

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