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1995

90年代の記憶はほとんどない. . .わけではないのよ。
ただ何年もおっぱいとうんちと保育園申請と仕事の締め切りと支払い入金と住宅ローン返済であたまがいっぱいだったわけではないの。
1995年、つまり平成7年は社会的にも個人的にも大きな出来事があってあたしの人生観をひっくり返すような1年だったから。

まずは阪神淡路大震災。
もちろんあたし自身は神奈川にいて何事もなく、被災した関西在住の家族や友人にけがなどはなかったんだけどね。
幼いころ神戸に住んでいたことがあるあたしにとってニュース画面に映る惨状はにわかには信じがたいことで、ただただこどもたちを抱きしめてTVの前で号泣してた。
その2か月後には地下鉄サリン事件が発生。
朝行ってらっしゃいと送り出した家族が突然帰ってこないという現実。
(ちなみにその2か月後に横浜駅で異臭騒ぎがあり、相方が現場にいてしばらく連絡がつかない、ということがあったの。
結局相方は無事だったし、異臭の原因もわからなかったんだけど。)
そしてその年末、実母がくも膜下出血で倒れたのよ。
不幸中の幸いというか、母は広島の親族のお見舞い中病院で倒れたので処置が早く、結論から言うとその後回復して後遺症もなかったんだけどね。
でも当時は(明日どうなるかわからない)という状態で、病院からはかならずだれか家族控室にいて連絡が取れるようにしてくれと指示があり、父と姉とあたしが交代で寝泊まりするという、先の見えない日々だったわ。
クリスマス前に倒れた母はICUで意識不明のまま年を越し、あたしは仕事をお休みして広島の病院付き添いと、父の実家で父の世話をすることに。
ふたりのこどもは相方の実家にお世話になることになったの。
相方と結婚して6年、離れて暮らしていたし、男女2人のこどもに恵まれて忙しく、相方の実家とは正直それまでは仲が良くも悪くもない関係だったんだけど、このことがあってからは思ったことを言い合える間柄になった半面、あたしの方には元気なこどもを2人も突然長期にわたってお願いしたことにはちょっと申し訳なかったという負い目も芽生えたわね。

結局母の意識が戻ったのは松の内が明けるころで、一般病棟に移ることができ、姉とあたしは一か月ぶりにそれぞれの家に帰ることになったわ。
母はその後温泉地のリハビリ専門病院に転院し、夏には退院たんだけどね、この間父は定年後も働いていた会社を退職し、母に付き添ってよく頑張った。
それなのにその後の母にはそのころの記憶がなかったらしく、(パパ可哀そう!)って感じっす。
あたしは相方の実家からこどもたちを引き取り、自宅に戻り、それから一か月くらいは休んでいた仕事を取り返すのにめちゃくちゃ働いたわ。
(下の子の保育園申請があったので仕事量を減らすわけにはいかなかったのね。)

こども2人の保育園申請が通り、兄妹がそろって通園するようになると本当に久しぶりにひとりの時間ができた。
で、ふと、鏡を見たの。
鏡をゆっくり見る時間もなかったんだとその時気が付いたわ。
だってね、生え際がびっしり白髪になってたの。
それまで白髪なんかなかったからショックだったわ。
もうとっくに年が明けていたこと、自分がもう32歳なこと、そんなことおかまいなしにこどもたちは成長していくこと. . .いまさらながら思い知らされた。

(あたしは、なにをしとんのや?)
嵐のようだった1995年を振り返ってみた。
(あたしも、いつ死ぬかわからへん。
それなのに時間はどんどん過ぎていく。
あたしもどんどん年を取る。
いったいなにをしている?
なんのために生きている?
ただ年を取るために生まれてきたわけやないやろう?
やりたいことがあっても、別れたくない大切な人がいても、死ななアカンかった人たちがおる。
せやのに、あたしはなんや?
ただ毎日働いて、時間に追われて、自分を見失って。
今あたしが死んだら、こどもたちは疲れて不機嫌なお母ちゃんしか覚えてへんかもしれへんやんか。
それでええんか?
そんな人生、そんなお母ちゃんでええのんか?
ああ、あたしはもう何年も死んでいたんや!
日本に帰ってきて10年間も自分の夢を見失い、自分を見失い、殺されかけとったんや。
イヤや、イヤや、こんなんはイヤや!
あたしはあたしの人生を生きたい。
人生を楽しんで、そんな楽しいお母ちゃんを見て、こどもたちにも楽しい人生を歩んでもらいたい!

このままじゃいけない、あたしはもう一度あたしを取り返さなければ、死んでも死にきれない、と思ったのね。
あたしは変わることにした。
まず、震災後食料や物資を求めて行列をする人を見て、「自立した人間になりたい」と切に思ったんだけど、いきなり自給自足なんて無理でしょ?
手始めにそれから毎年震災の日に味噌を漬け込むようになった。
以前から加工食品作りに興味はあり、母親になってからは食品の安全性などにも興味を持つようになったので、その両方に詳しかった母方の伯母にいろいろ教わりながら味噌をはじめ梅酒や漬物などを作り始めたの。
また、理系の相方とは基本趣味趣向が違ってたんだけど、共通の話題が欲しいと思い、彼が詳しいネットやPC関連のことを教えてもらってそれを翻訳の仕事に生かすことにした。
あまり興味がなく得意でないことも、仕事に絡めてしまえば必要性も高くなり、より熱心に教えてもらえると思ったのね。

そしてあたし自身が最も興味があり、生きている実感が得られることは何かと考えた時、やはりそれは絵を描くことであろうと思った次第。
日本に帰ってきてからはなんとか自分の特性をCM制作のプランニングに生かせないかと願い、また個人的にもイラストレーションのコンテストに応募したりはしていたのよ。
でもよくよく考えるとそれはただ評価されたい、認められたいというだけで、あたし自身がなにか表現したいものが強くあるわけではなかったのよ。
こどもが生まれてからは時間がないせいもあって絵を描くことそのものから離れてしまったし。
要はね、もう描きたいものがなかったの。
学生の頃のように、時間も忘れて描きたいと思える、熱くなれる「なにか」をあたし自身の中に見出せなかったの。
幸いこどもたちも保育園に入園でき、時間は自分が管理すれば作り出すことはできたからね。
あたしはとにかく無理やりにでも絵を描く時間を自分に与えなければ何も始まらないと考え、通信教育で基礎から勉強し直すことにしてみた。
それは決まった課題を制作し、本部に送って講評してもらう、というもので、人に見てもらうことを前提に描くこと、描いたものを批評してもらうこと、はあたしが「規則正しく描く」上で大事だと思ったの。
これを平成8年からはじめ、2-3年で終わらそう、楽勝だぜ、と思ってたんだけど、結論から言うとこの講座を修了するのにその後4年半かかったわ。

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