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せまい水槽、ひろい海

人生に悩んでいる友人へ。そして同時に、いつかの自分へ。

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ある魚は、広い海の中だと喧嘩しないのに、狭い水槽に入れると、一匹がターゲットになって、みんなで攻撃しはじめる。

ボロボロに攻撃された魚を水槽から出してあげると、今度はまた違う魚が新たなターゲットになる。

さかなクンのちょっと古い記事(朝日新聞2006年掲載)だけど、とても含蓄がある。

広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、なぜかいじめがはじまるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。

せまい水槽がこの世の全てだと思ってしまうと、逃げ場がない。大事なのは、視点を変えれば広大な大海原が広がっている現実を認知することだ。

たとえひとつのコミュニティ内でうまくいかなかったとしても、今までとは全く違う新しいコミュニティが、世の中には無数にある。

「せまい水槽」が無数にあって、「せまい水槽」の集合体が、「ひろい海」だ。

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10代の頃は、小・中・高・大と、入学と卒業を繰り返すことで、自然と「出会い」と「別れ」の機会があった。好きな人とも嫌いな人とも強制的に物理的に別れられるのは、今思えばとても良いことだと思う。

一方で、おとなになると「出会い」も「別れ」も自発的につくらなければならない。突然の別れや偶然の出会いもあるけれど、ほとんどは自分が動かないといけない。

人間関係にも断捨離が必要だ。

人は変わる。気持ちも、趣味も、考え方も。一日のなかでもテンションの浮き沈みは少なからずある。「ぼくときみはずっと仲良し、死ぬまでずっと一緒」なんて、人生はそんな都合よくいかない。

居心地が悪いと感じたらコミュニティを変えようと思う判断は、いつだって正しい。その際、「なじみがあるから」「お世話になっているから」「恩があるから」なんて考えなくて良い。

ひろい海を知らずに、せまい水槽の中で、もがき続ける誰かがいる。
ひろい海を知らずに、せまい水槽の中で、死んでいく誰かがいる。

人はどうやって、ひろい海を知るのだろうか。

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ぼく自身は、「旅」と「本」、そしてやっぱり「人」に救われた。

旅は、肌で感じる。
異国の大地に両足で立ち、バックパックを背負って、現地の風を感じる。
「こんなに素晴らしい景色があるなんて知らなかった」
「こんな心地の良い風があるなんて」
「こんなにおいしい食事があったなんて」
そんな思いを馳せるシーンが一瞬でもあれば、その思い出だけで、ぼくは生きていける。

本は、脳で感じる。
いろんな人の多様な生き様が、直接会っていなくても知れる。
「あんなにすごい人でも、こんな小さなことで悩んでいたんだ」
「そうか、ぼくだけじゃないんだ」
「こうやって解決すればいいのか」
そう一瞬でも思えた一文があるだけで、ぼくは生きていける。

人は、心で感じる。
素敵な景色を見せてくれる人、斬新な意見で心のモヤをとってくれる人、余計なことを言わずに手を握って寄り添ってくれる人。そういう人とたまたま出会えたから、ぼくは生きていける。

旅も、本も、人も、全て必要だった。

旅に出よう、本を読もう、人と出会おうなんて、あまりにも陳腐すぎる言葉だけど、きっかけはなんでもいい。ひろい海をどうか知っていてほしい。

そして同時に、せまい水槽を飛び出して新たに入った別の水槽も、せまいことを知ってほしい。

逃げ場は、かならずある。八方塞がりで、にっちもさっちもいかない。そんなときでさえ、抜け道はある。

これからも、せまい水槽を飛び出そうとする人の後押しができたなら。

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