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認知症=「不幸」な病気と呼ぶ人へ

私には若年性認知症の父がいます。
以前、父と我が家族についてnoteで連載していた「時をかける父と、母と」のエッセイがこのたび、cakesにて連載スタートしました!

ぜひ読んでほしいな…と思いnoteでこの記事を書いているところで、
ふとtwitterを開いたら、認知症のお父さんを亡くされたかたのツイートを見ました。

認知症の父のメモを見るのってつらい。きっと奥さん(母)に叱られながら、忘れていくできごとを必死に書き留めて、苛立ったり喧嘩したり落ち込んだりしながら葛藤した姿なのだと思う。書き文字ってそういうものが露わに出てくるので、父親の必死な姿を読むのはつらい。亡くなったあとならそれもなおさらかもしれない。巨大な反響を呼んだツイートだからこそ、さまざまなコメントもついていた。

コメントは、認知症のつらさに共鳴するものが多く、当事者家族もそうでない人も含め多数の声が寄せられていた。そのなかでひとつ引っかかったものがある。
「認知症はみな不幸になる。早く治療法を確立してほしい」といった内容があった。それに「いいね」もたくさんついていた。特に他意も悪気もないだろうし、本音なのだろう。ただ、なんだかすごく傷ついている自分がいた。

認知症という病気が、つらくて大変な病気であることは事実として拭えない。実際、私も父のメモを見て泣いたことが何度かある。いままでできていたことができなくなる父に、本人も母も私も家族もみなたくさん苛立ってきて、喧嘩もして、切ない思いもして、特に母は大変なストレスを抱えた。自分も家族も、病気に対して葛藤があるときが一番辛いときなのだと思う。たしかに大変な病気だ。でも、「不幸」だったか?そんなひとことで片付けてほしくない。

すべてを忘れていくという病気は、確かにつらい。
だけど今の父は、純粋な子供のように、ただただ目の前のことを喜んで、さっきまでのことをあっという間に忘れる。誤解を恐れずにいうならば、病気の進行が、父と、家族のことを助けたこともまた事実で。近年の父の変化は、「進化」に近い変貌を遂げていると私は思っている。

もちろん病気の症状は本当にさまざまで、この先何が起こるかもわからない。だけどこんな人もいる、こんな認知症の姿もある。ひとつのストーリーとして、見守ってもらえたらいいな、そんなことを思っているのだなとこのツイートのおかげで気づけた。このエッセイを通して私は、「不幸自慢」を書きたいわけではないということ。だって不幸じゃないし。きっとこのツイートの主のお父さんだって、不幸だったわけじゃないはずだから。

ということで、スタートします。どうぞよろしくおねがいします!




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