初めての出会い系アプリ

 この記事はKumano dorm. #2 Advent Calendar 2020の8日目の記事です。その1もどうぞ。

 最初に断っておくが、これは出会い系アプリに対しての私の私による私のためのレビューであり、あまり皆さんのお役に立てるような内容ではない。今から真剣に出会い系アプリを始めようと考え、参考にしようとしている諸君は回れ右をして、Twitterで情報収集する方がいいかもしれない。クソ長自分語りに付き合わされたくない人も今なら引き返せます、時間は有限なので自分のタスクをこなしましょう。

 私が出会い系アプリを始めた理由は、とある出来事で地の底に落ちた自己肯定感を引き上げようと焦ったためである。女性は出会い系アプリにおいては人口的に有利であり、すぐに「いいね」が貰えると聞いたことがあったのだ。真剣に彼氏が欲しくて始めたわけではなかった。いや、正直にいえばある程度は期待していたかもしれない。実は出会い系アプリには否定的な意見しか持っていなかったが、それでは伝〇を食べる前から批判する人と変わらない。やってみてから自分の目で判断してみよう。こうしてタ〇プルをインストールし、私の出会い系アプリライフが幕を開けた。

 ちやほやされるためにアプリをインストールした私の目論見は間違っていなかった。お世辞にも美人とも美少女とも言えない私にも、1日何十件もいいねが来る。朝目覚めて、バイトの休憩中、はたまたシャワー室での待ち時間、とにかくありとあらゆる隙間時間でアプリを開き、いいねをくれた男を選別し、メッセージをやりとりしていた。今省みると何だか自分自身の育成ゲームのようで滑稽である。それは自身の自己肯定感というゲージをタップ・スワイプして上げていくゲームであった。送られてくるメッセージの中には「顔がタイプなのでメッセージ送っちゃいました笑」のようなあけすけなものもあり、全く自分の外見を褒められ慣れていない私はすぐにいい気になった。もっともプロフに用いたのは「盛れる」角度で「盛れる」アプリで撮った「盛れた」写真なので、実物より優れて見えているのは間違いないが。

 アプリを始めて一日というスピード感で、とある大学院生と食事の約束をした。趣味も合うし、会話のテンポがちょうど良かったのと、プロフ写真がまあまあタイプだったからである。1週間後、ついにその時が訪れた。待ち合わせ場所に現れた男性はそれなりにプロフ写真通りで、「存在していたんですね」とまあまあ失礼なことを言いながら元田中の中華料理屋に向かった。何を専攻しているんですか、何のサークルに入っているんですかなどと当たり障りのないことを聞きながら私はとある感情を抱いていた。

早く終わらないかなこの時間・・・

 私も相手もそれなりに会話のキャッチボールは出来ていたのだが、如何せんつまらなかった。おそらく自分が彼女候補として捉えられているという緊張から、本当に当たり障りのないことしか話せず、コミュニケーションとしてつまらなかった。ほとんど初対面の人と食事するのも落ち着かず、料理を味わった感覚がなかった。普段友達と良くも悪くも適当に会話している時間がいかに楽しいのかが実感できた。私との会話を楽しんでいるのかそうでないかもよく分からない相手の本名が初めて分かったのは、食事後LINE交換をしたときであった。なんとも言えない感覚に気持ち悪くなった自分は、部屋に帰ったあとすぐに相手をブロックした。このときの相手には本当に申し訳ないと思っている。アプリを開くと、匿名の大量の人間から「運命の相手」を探すという行為に今更目眩がして、アプリからも退会した。

 出会い系アプリが悪いものなのではなく、結局私にとってあまりに不向きであった。初めは外見の自己肯定感を上げられたように感じていたが、いざ会ってみると何かを得られた感覚が無く、自分の内面と外見ともに自信をさらに無くしてしまった。よく知らない人と食事をするという苦痛を伴う行為の試行回数を上げて彼氏を作るというのがハイリスクローリターンに感じてしまった。次に会う約束を誰かとしたとして、またつまらなかったら本気で病んでしまうと直感した。

 出会い系アプリを始めて、そして1週間で退会してから自分の恋愛観についてずっと考えていた。周りでもアプリを上手くやっている友達は何人かいて、その人達と私は何が違うのか考えていた。おそらく私は、女子としての自分に対する自信の無さが故に、そういった枠組みに囚われず人間として好きになってくれる人を求めすぎているのではないか。アプリで出会った人にまずは女の子としてよく思われるよう振る舞うことは私にとって理想の恋愛のスタートではなかった。恋愛関係を前提として行うコミュニケーションは自分が想像していたよりもぎこちなく、作り笑いが出てしまうものだった。かといっていつも通り振る舞えるほど器用では無かった。

 仮に私がアプリを続けていたとしたら、初対面でも話が驚くほど噛み合う「相性がいい」相手に出会えていたかもしれない。しかし、私は出会いに終わりが見えないことに恐怖を感じた。いい相手に出会えたとしても、他にもっと自分と「相性がいい」男性がいるのではないかという疑念を私は払拭できるのだろうか?それは相手の視点においても同じことで、私よりも「相性がいい相手」を自分と付き合ったあともアプリで探し続けているのではないかという疑いをやめられる自信が私には無い。まるでポケモンの努力値調整のように、自分の理想を追い求めるのは疲れるだろうし、何だか倒錯しているように思えてしまった。自分がアプリを使うことはもうないなと思った決定的な考えはこれかもしれない。

 最近気付かされたのだが、恋愛のみならず人間関係において「相性がいい」という言葉が嫌いだ。属性で人を好きになる側面は否定できないが、人間関係を相性で片付けてしまうと余りに空虚に感じてしまう。アプリでは顔だとか趣味だとか年齢だとか、とにかく属性から人を仕分けして関係をスタートさせるが、自分の求めている人との関わり方ではなかったのだ。結局友達であっても恋人であっても、一緒に居たら楽しいぐらいのかるい理由で好きな人と付き合っていくのが自分にとっては適しているのだと思う。この文章を書いてはたと思ったのだが、熊野寮に入寮していないと仮定した自分はアプリをどう捉えるだろうか。案外もう少しは上手くやれていた気がする。そこそこに本来の自分をさらけ出せる贅沢な環境に身を置きすぎて人間関係を築く上でわがままになりすぎているきらいはある。と、ここでkmanacでこのテーマをなぜ選んだのかと疑問に思う読者諸君に言い訳しておく。

 またしても長々と自分語りをしてしまった。私がブログのようなものを書くのはこれが2回目である。(1回目は去年のkmnac)出会い系アプリを始めて良かったことは、これからは自分は出会い系アプリに向いていないと正々堂々と言えることと、ブログのネタができたことである。また、出会い系アプリに懐疑的だったのは、単純にそんなもので恋人ができる訳ないやろ!という適当な決めつけであったのでこの認識も是正できてよかった。向き不向きはありますが向いてる人は多分できます。以上かなり長くそこそこ気持ち悪い自分語りをここまで読んでくれてありがとうございました!私と適当コミュニケーションしてくれる人間とたくさん寮で、大学で出会えて本当によかったな。私と出会って良かったと思える人が1人でも居てくれたら嬉しいな。

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