「命」の締め切り

ここ最近、デスクに向かうとき、あるいはソラでアイディアを練るときに浮かぶことばがある。

「命の締め切り」とか「締め切りは命」とか、そんなフレーズだ。

当たり前のことだが、大学を卒業して編集プロダクションに入社してから、サラリーマンを半年、タウン誌の編集、フリーランスのコビーライターを経て、物書き・編集者として口に糊するようになった現在にいたるまで、仕事の締め切りはずっとついてまわってきた。

週刊誌は毎週金曜日が締め切りだった。サラリーマン時代は毎日の午後5時が日報の締め切り。タウン誌は月刊だったから毎月締め切りが来た。
コピーライターはそのつどだったが、適当な文案仕事だから、あちこちのクライアントのかけもちで、毎日のようになんやかんやの締め切りがあった。

一応物書きを自称するようになってからは、締め切りはご相談で、こんなことをいうのもなんだが、それはアバウトがお約束。オトナの事情でだいたい遅れるのがならわしだ。

決めるにしても決められるにしても、「その日」は設定されているから、それなりにペース配分をして作業は進めることになる。

ところが、いまお手伝いをしている本の編集作業に明確な締め切りは設定されていない。
ある方の自伝ともいえる本なのだが、「なるべく早く」というのが申し合わせで、できれば本人がご存命のうちに上梓して手渡したいね、という曖昧なものなのだ。

ご本人は末期がんで、容態は楽観できるものではない。いつ命のロウソクが消えてもおかしくない状態だ。
したがってネジまいて作業をしているのだが、目をつりあげてパソコンに向かっていると、なんだかそのときをこっちが急かしているようでもあり、つい息をぬいてみたりする。
がんを宣告されてから四半世紀を生き抜いた御仁。その勢いで、そのときはまだ先に延ばされるのだろう。そんな思いが交錯したり…

「命」という締め切りは、追われるというよリ、目の前にぶらさがっているという感じで、ぼくに訴えかけている。
この不思議な感覚に浸っているうちに、今朝、はたと気づいた。

この「命」の締め切りは、もともと目の前にあったではないか。気づくのがおせーんだよ!と。

某人物の自伝のものがぶらさがらない前に、「堀 治喜の人生」という締め切りが、オンギャーとこの世に生を享けたそのときからぶらさがっていたのだ。

ぼくたちは命の締め切りまでに、人生を終えなくてはならない。この締め切りからは逃れられない。

そして、その締め切りがいつくるのかは、だれにもわからない…。


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