“権力”としてのカープ球団

きのう、新宿ピカデリーで映画「新聞記者」を鑑賞。広島では機会を逃しつづけ、上京してようやく念願が叶いました。

映画は時代の空気のなかから生まれ、それをスクリーンに映しだすものでしょう。たとえそれが過去の歴史ものであっても、未来に舞台を設定したものであっても、現代に通底するテーマでなければ共感を得られないし支持もされない。たとえそれが娯楽ものであっても、そのセンスは現代的であるかは問われることでしょう。

その意味でこの「新聞記者」は、いかにも映画らしい映画作品ということもできるかもしれません。
館内の闇のなかで、ヒリヒリするようなリアル感に圧倒されていた113分でした。

ストーリーは、国家の陰謀を知ったある新聞社の記者が、権力側からの圧力を懸念して記事にすることを躊躇する社内を説得し、国家側で陰謀をサポートする部署で働く男性の協力を得てスクープをものにするというもの。

よくあるストーリーといえばいえるのですが、いま現実に知られた事件とリンクしている「リアルタイム感」が強力な磁力となって、スクリーンにグイグイ吸い寄せられてしまいました。

権力側で働く男性が、生まれたばかりのわが子を抱きながら、家庭を犠牲にするかもしれない告発を迷っているシーン。
抱かれた赤子が、まるで父親の良心を問うかのように厳しい目で彼を凝視していたのが、映画の製作時に生起する奇跡のワンシーンとしてとても印象的でした。

それにつづいて彼の妻が「全的にゆるす女神」のように彼を抱擁したところだったでしょう、右隣の女性がすすり泣きはじめたのは。

そして、ついに彼が告発をする覚悟をした場面。
「君がぼくの子供だったら、どうしてほしい」と女性記者に決心を伝えたときでした、左隣の男性から嗚咽が漏れだしたのは。

観客はみんなそれぞれの記憶と、それぞれに抱えている問題とによって、ことなるアプローチでわが身を登場人物に投影していた。

映画「新聞記者」は現代のジャーナリズムのあり方を問い、問題点をえぐる作品であると同時に、組織とか家庭において個人がどうあるべきかを考えさせる作品にもなっている。
それが来館者が絶えない理由のひとつなのでしょう。

ぼくはといえば、もちろん感情移入していました。いや「身につまされた」といった方が当たっているかもしれません。

口はばったいようですが、ちょうど今日が発売日の拙著「ズムスタ、本日も満員御礼!」と、この映画でのスクープ記事はスケールの大きさこそちがえ、ぼくにとっては同じ意味を持つものだったと気づいたからです。
そう「“権力”を告発した」という意味で。

ぼくが住む広島は「マツダと広島東洋カープしかない」そんな土地柄です。
もちろんマツダは経済的な城主として。そしてカープは精神的な太い柱という意味でです。

なのでマツダとカープとは広島では「権力」でもある。当事者が好むと好まざるとににかかわらずです。
「新聞記者」でいえば国家というか政権ですね。
もちろんカープといっても、チームではなくカープ球団のことですが。

今ではそんなことはないとは信じますが、かつてマツダが東洋工業を名乗っていたころは、コスト面や品質面で、また納期などで露骨な下請けいじめがあったと聞いています。権力行使の、ひとつのカタチですね。
力関係に上下があれば、このような事態が生まれがちなのはいうまでもありません。その力の差が大きくなればなるほどそんな傾向が強くなるのは必然というものでしょう。

いまのマツダはさておき、プロ野球屈指の人気球団となったカープ球団には残念ながらその「権力」をほしいままに乱用しがちな傾向が見え隠れしています。

拙著「ズムスタ~」でも触れていますが、たとえば2015年に発覚したグッズ納入業者にたいする消費税引き上げ自粛の強要など、その最たるものでしょう。

もちろんそんなことが露見しないはずもなく、公正取引委員会からカープは勧告を受けるという不祥事に発展しました。

露見しないはずもないことを、なぜカープ球団は軽々にしたのか?
そこに“権力”の奢りがあったことは自明ですが、このような不祥事が発覚しても大したことではない、制裁を受けることもないという甘い認識がどこかにあるからでしょう。

「カープネタの供給」をタテに、カープ球団がメディアに大きな影響力を行使していることは周知の事実です。いわゆる「トップのお部屋に喚び出して出入り禁止の脅し」です。

カープの取材ができなければ、カープでメシを食っている地元メディアは、それこそ干あがってしまいます。
そのことは、前述の消費税の問題がベタ記事一本で終わってしまい、大した話題にもならず、あなたが(たぶん)知らなかったことからも明らかでしょう。

チケットの販売に関してもそうです。
とても公正とはいえない不可解な販売方法でファンに要らぬ負担を強いたり、高額な転売チケットが流通するに任せているのも、メディアがきちんとした検証報道をしない、できないことが大きな原因でしょう。

その結果の必然として起こったトラブルが、このシーズン前に起こった「抽選券騒動」でした。

そんなことを想起しながらスクリーンを眺めているうちに、あることに気づきました。
「1冊の本を書いた」と思っていた「ズムスタ~」でしたが、恥ずかしい話、これもジャーナリズムの行為であり、告発のひとつであったことをあらためて自覚したのです。

それを自覚してから、スクリーンの世界がさらにリアルなものとして迫ってきたことはいうまでもありません。

もちろん“告発”にリスクがともなうのは、「新聞記者」でも語られていました。
ぼくの場合は「ズムスタ~」の先行書ともいうべき「衣笠祥雄はなぜ監督になれないのか?」と「マツダ商店(広島東洋カープ)はなぜ赤字にならないのか?」を書いたことで、“権力”から仕事上の制裁を受けることになりました。

「あいつが書いた記事が掲載されたものには球団公認は出せない!」
言葉は悪いですが、そういう方法で版元を恫喝して兵糧攻めにでたわけですね。

幸いにして、もともとたいして仕事もない売れないライターなので「干された」という実感は乏しいものの、まだ知らないところで有形無形のプレッシャーはかけられていることでしょう。

ある問題を知ったり自覚したとき、ひとはそれぞれの立場でそれぞれに何かに思いいたります。そして何か行動を起こそうとして現実を前に逡巡したり、意を決して行動を起こすかもしれない。

だから、すべてのひとがこの「新聞記者」の記者であり、告発者でもあるともいえるのでしょう。






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