口紅の産地、アフマーバハルを訪ねて

たまには旅行にでもいこう。

口紅の産地、アフマーバハルを訪ねて

心底仕事に疲れてしまったので、気晴らしに3日だけ旅行にいくことにした。何処にいくか決めてはいなかったのだが、たまたま寄ったドラッグストアの店員さんにおすすめされた口紅のお陰で行き先は決まった。その深紅の口紅はフェアトレードでとある国からやって来たものだった。有名なメーカーではないし、かなり聞きなれない国であったが、その国を調べてみると実に穏やかな土地であり、美しい海が広がっていた。その海と、口紅の産地だというのにふさわしい赤い大地に心底惹かれてわたしはその国、アフマーバハルに行ってきた。

アフマーバハルは南緯39度西経135度の太平洋上南半球に存在する小さな島国である。アフマーバハルはアフマル語を話し、島国ゆえの独特な文化と人類学的ルーツの謎から多くの学者たちを悩ませてきた、らしい。らしいというのは私が詳しく知ったのがごく最近のことであり、そんな国があるなど全く知らなかったからである。口紅の朱色、赤色、紅色、俗にいうレッド系の色彩は実はこの国で作られている、というのは知っていても多くの人は気に止めないことであろう。私は口紅の色に全く興味はなかったが、ドラッグストアの店員が熱心に解説するもので興味が湧いたのだ。ついでに店員オススメのアフマーバハルからフェアトレードでやって来た朱紅色の口紅を買った。いい買い物だったと思う。
そして私はアフマーバハルと出合った。

国の文化や歴史の解説などは調べれはすぐに出てくるから割愛する。ぜひ調べてほしい。太平洋上の島国を渡り歩き、「赤い船」として各地の伝承に残っていたり、どこからともなく現れた赤耳族が政治を取り仕切り、それに不満を抱いた民衆たちが赤耳族を追放させる一揆を起こして一時的に国自体が闇に葬られたりとなかなかに面白い歴史をたどっている。調べてほしい。

さて、日本からティリーに向かい、そこから船に乗って波に揺られること数時間、ここまでの旅路はとくに面白いことはない。ティリーでは財布をなくして探し回り、悪漢に襲われかけて親切な人に助けてもらい、財布を探しだし(なんと空港で既に落としていたらしい。落とし物センターに問い合わせたところ一瞬で出てきた)、苦労した記憶しかない。道を教えてくれた親切な人、アフマーチャ。
アフマーチャとはアフマル語でありがとうと言う。直訳すると「赤の恩を受け取った」という意味である。

船にのっているときから、遠くに赤い島が既に見えていた。頭上ではウミネコがにゃあにゃあ鳴いていた。不思議なことに、アフマーバハル付近に住むウミネコには翼に赤いラインが入っており、普通のウミネコより精悍な顔つきをしている。アフマーバハルは生態系も独自でありその多くが大地の色に沿っているのか赤色をしている。進化の過程で赤の色素を多く取り入れたらしい。植物にも赤いものが多い。この植物が大事なのだが、それは後述する。
青空の下でかがやく赤銅色の大地が見える。海は透明なブルーグリーンであり、そのコントラストで目が眩むようだった。爽やかな風が吹き抜けていく。バカンスに最適な静けさが広がっていた。

眼前に広がるのは、赤い砂と岩、それから植物たちだった。誰でもヤシの木は知っていると思うが、そのヤシの葉はバラのようなマットな質感の赤色をしていた。艶がなく、触ると吸い込まれそうな赤だ。木の幹も赤い。こちらは少し茶色がかった赤だ。
砂はルビーのようにキラキラしてまぶしかった。宝石なのかと思ったのだが、実はどこの国でも当たり前に存在する石英や雲母なのだそうだ。この島の土地には普通では考えられないほどの赤色素が含まれており、それは岩に染み込み、普通の鉱石を赤く染め上げるらしい。この赤い色素は科学的にも独特な構造をしており、どんなものにでも溶け込んで染めてしまう。わき水でさえも薄い赤に染まっている。
情熱的な色に驚いて、私は歓声をあげた。ここまでつれてきてくれた船の船員が「よい旅を」と日本語で言ってくれたのが印象に残っている。
簡素な赤い木の桟橋がある港に降りると、突然孤独感に襲われた。ここでは上司も後輩も友人もいない。日本語は通じないし、この国の人が当たり前に持つ夕焼けのように美しい赤い肌は持っていなかった。
私は独り異郷の地に立っていた。異質だった。
通る人が珍しそうにこちらを見ている。どの人も赤い色を持っていた。
海外旅行をした人ならば感じるかもしれない、ありきたりな孤独が私を襲って立ち尽くさせた。遠ざかる船がよりいっそう、寂しかった。
本当にアフマーバハルまで来てしまった。あの口紅の解説を聞いたときから、何年もたったような感覚がした。
そうだ口紅だ。
私は目的を思い出した。
私の目的は、口紅の色素を作るところを見学することだった。

アフマーバハルは、口紅の産地である。独特の色素に染まった植物や鉱物から赤い色素を精製し、口紅を作る。この色素はもともとは純粋な赤であるのだが、取り込まれるものによってさまざまな赤に変色する。先程のヤシの木で言うと葉は鮮明な赤、幹は赤茶色、海岸の砂は硬質な透明感のある赤、他にも、紫やオレンジに近い色や、ピンク、ダークレッド、灰色を帯びた赤など種類は動植物、鉱物の数だけ存在する。
その豊富な色素はすべて天然由来であり、アフマーバハルの人々の肌を赤く染め上げ動植物に着色することから、人体やその他のものにとって悪影響などはなく安全である。
化学製品が横行するなかで、アレルギーのない天然の赤い色素はとくに肌に触れるような分野……服飾や化粧品、ベビー用品などで重宝されている。各地で取り合いが起こるほどらしい。

という説明を、良子さんが丁寧な口調でしてくれた。良子さんはこの国に住む日本人移住者である。もとは人類学を研究していた大学院生であり、この国に調査で訪れたさいに今の旦那さんに一目惚れされ猛アタックを受けた。しばらく遠距離恋愛をしていたが情熱に押されて、また自身の研究をするためにこの国に移り住んだ。
私がいきなりアフマーバハルまで来ることができたのは、良子さんが案内を請け負ってくれたからである。昔から私は人に頼る性格で、今回の旅行を計画するさいに現地の人に案内を頼もうとして、たどり着いたのが良子さんなのだ。
良子さんは今は研究を続けながら、この国を訪れる日本人のために観光案内や通訳のような仕事をしている。
良子さんは朱色の肌をしていた。日本人であるのに朱色の肌をしていたので、私は先程の私のように孤独に耐えかねてなにか塗っているのかと思って訊ねた。
「そういえば良子さんの肌は赤いですね。なにか塗ったりしてるんですか?」
良子さんはぱっと笑っていやいや、実は、と笑った。
「いえ、これは色素に関係するんです。天然由来の色素はなにでも染まる、と先程説明しましたが、実は、アフマーバハルで日常的に使われる水は、赤色をしているんですよ。水を飲んだ生き物は赤い色素を体に溜め込むんです。生物濃縮ってわかります?それと同じで、この土地の水や食べ物を食べると、この国に住む人間は肌が赤くなっていきます。生まれてからずっとこの国で暮らしていれば、老いてくる頃には深みのあるダークレッドになります。年を取るごとに濃くなっていくんです。生まれたばかりの子供は実は、肌は薄い色をしていて……日本では赤ちゃん、何て言いますが、この国では白ちゃん、というような意味の呼び名で呼ばれます。成長すると赤くなっていくんですよ」
なるほど、と私は相づちをうった。7年アフマーバハルで暮らした良子さんの朱色の肌は、この国で生まれ育った7歳の子供と同じ色らしい。年を取るごとに濃くなる肌を見て、この島の人間として生きているという実感が得られると良子さんは言った。


続くかもしれない。
2020.5.20

この話はフィクションです。実際のあれこれとは一切関係ありません。

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