コンテクストを思考していく

社会圧として組織にせまられている「多様性への対応」という圧力。

そこに相対する時、組織としてはどのような態度で屹立する必要があるのか。

「あいつがこうだから〜」「この問題はここを解決すれば〜」という近視眼的な見方ではなく、もっと大きな「枠組み(コンテクスト)」に目を向ける必要があるのではないか。

例えば「多様性と生産レベル安定の維持」であったり「多様性と効率」であったりというコンテクストを眺めていると、もしかすると「本当に生産レベルを安定して維持しなければいけないの?」「効率は本当に求めないといけないの?」という発想に行き着くかもしれない。

これは、その議論自体が正しいか/正しくないかではなく、そういった着眼点や視座を持つことができるか?という問い掛けであり、陳腐な言い方になるかもしれないが、複眼的な視点で物事を眺める余地をもっと大切にしようよ、という投げかけでもある。

出来ないことを出来るようにすることはとても素晴らしいことだと。技術も知識もそうやって進歩をし、我々の生活や人生さえも変えてしまうようなことを成し遂げてきた。
しかし、みんなが一様に「出来ることだけが素晴らしいのだ」と考えたとしたらどうだろうか。

我々はアウシュビッツや優生保護法を違う形でまた繰り返すようなことを起こしかねないのではないか。

凸凹は凸凹のままでいいのかもしれない。

凸凹を□□にしようとするから歪みが生じるのかもしれない。


それは社会に「寛容さ」を求めることなのかもしれない。
そのあまりにも暴力的な寛容さの先に待つのは、分断なのか衰退なのか、それとも全く違う別のポジティブな何かなのか。


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