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聞書・百瀬博教一代

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プライドの怪人として知られた 2008年1月27日に亡くなられた格闘プロデューサー・作家・詩人との10年に渡る交流で描いた百瀬博教氏の聞き書きの一代記。
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2021年1月の記事一覧

『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』#23

レイトンハウス・赤城明との邂逅 1986年、突如、博教の前に現れた「バブルの申し子」こと…

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『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』#22

日本列島にバブル景気が訪れる1980年代、その手前の70年代後半、博教は刑期を終えて出…

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『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』#21

1976年。 出獄した百瀬博教は正業に就くことはなかった。 かつて用心棒として勤めた、赤坂…

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『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』#20

第5章 出獄 1974年8月──。 34歳になっていた博教に出獄の日が訪れた。 この日、4人…

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『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』#19

秋田の獄に暮らして三年四ヵ月過ぎた一日、開く筈のない時間に博教の入れられた独居房の扉が開…

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『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』#18

昭和44年5月9日――。 二十九歳の博教は、秋田市川尻の獄に下獄した。 明治中期に造ら…

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『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』#17

裕次郎との別れ 博教は自分が下獄する前に、どうしても裕次郎に会いたかった。 会って一言でもお詫びが言いたかったのだ。 昭和43年の12月の末、「週刊平凡」の編集長・木滑良久氏のはからいでハワイヘ旅立つ前の裕次郎と羽田空港の一階食堂で会った。 もちろん、博教は全国指名手配の逃亡者なので、公の席で彼を見送ることは出来なかった。 事あれば裕次郎の身を護ろうと思って持っていた「道具」だったが、それが裕次郎をはじめ周りの人達にまで迷惑をかけてしまい、いつか直接、詫びを言いたかっ

『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』#16

秋田の行事 召喚状を破って逃亡した博教は日本中を転々とした。 気の休まるような時は一瞬た…

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『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』#15

1965年、アメリカ軍による北ベトナム爆撃(北爆)開始された、丁度、その頃に博教は25…

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『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』  #14

 保釈で拘置所から出た夜、迎えに来た父の乾分福井とタクシーで市川の家へ戻った。  待っ…

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『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』  #13

東京オリンピック  1964年10月10日午後2時。  東京千駄ヶ谷の国立競技場に94…

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『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』  #11

 社交界の中枢であったラテンクオーターには、数々のスターが訪れた。  まだ22歳の若造な…

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『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』#9

昭和三十五年──。 博教が成人式を迎える、この年、皇太子妃美智子様が浩宮を出産し、浅沼稲…

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『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』#8

第3章 赤坂ニューラテンクオーターと裕次郎時代  用心棒  博教は19歳になり将来の針路を模索していいた。  相撲取りになる夢も、新田新作のもとで養子になり実業家になるという目論見を外れ、立身出世を夢見て政界の実力者の住み込みの書生になりたいと、そのツテのある叔父の坂本雄五郎に頼んでおいた、  ある日、父・梅太郎からの指示で、これから直ぐに目黒の吉田裕彦氏に会いに行けと言われた。  吉田裕彦氏は九州の博多出身。北一輝の書生をしていたが、昭和十一年の二・二六事件で北が