締切と情熱のあいだ…それは愛だ…?❤
書く媒体を調べたい。
その世界に立ってナマの実体験や感動を味わってから書きたい。
にわか(新規)が、その道のプロや初期からの熱狂的なファンを差し置いて、業界の上辺や人の声をすくって書くのを失礼に感じる。
ブルーピリオド最新刊が刺さったのは、そんなエゴ(正義感)を代弁してくれたからな気もしてきた。
締め切りは明後日。今日も明日もパート。世界にどっぷり浸る時間はない。
ひねりだしたくない。敬意をもって現場から活き活きと書きたい。
その最低限と、商業ラインの歯がゆいスレスレを攻める。
上辺の知ったかぶりではなく、底の底に没頭したい。自責する心とタイピングする手。
これは葛藤するものだと頭をかかえた。
「プライド」について、過去に自論があった。
■「わたし」のプライド ⇒ 自分が信じたいものを守れ
■「誰かの作品」「クリエイター」のプライド ⇒ 守れ! 全力で!
耳障りよく聞こえるけれど、プライドが「人任せ」ということだ。
自己肯定感を他者肯定感におきかえ、
他者を肯定することで自己を肯定する。
今だからこそ言えるけれど、18歳ぐらいの時、わたしは自分の「肯定」を人にゆだねた(「肯定の工程」…うまいこといわんでよろしい🙀)
世に出て誰かかしらから認められているということは矮小な自分以外から既に肯定されているものだ。
その作品を肯定するのは自分の責任ではなく「作品の責任だ」という塩梅だ。あまりの責任転嫁と自分勝手さに我ながら何を言っているのかよくわからない。
「依存」「執着」はこうやってするんだな、とも感じる。
今でこそ「自分」も「わたし」のプライドの範疇に入っているけれど、自分を認められなかった時は他の誰かや作品を信じることで自分の価値を感じることができた(当時は劣等感の塊で卑屈になってました…オレナンカドーセです…ウッ)
今でもそれはわたしの自信の1/4…いや実は半分ぐらいはまだそうなのかもしれない。そしてそれは悪いだけのもの、というわけでもない…と思う。
間違いなく過去に触れた作品の数々が私を形成している。
わたしの人生は「オタク」にはじまって「オタク」に終わるんだと思っている。我が人生に一遍の悔いなし(byラオウ「北斗の拳」)だ。
作品を愛し、没頭し、生きたい。できれば何かおもしろいわくわくするもの、希望を創る人に寄り添っていたい。
ということで「誰かががんばって作ったもの」「誰かががんばっていること」を、「にわか」で心にもなく何かを知った風に語ることは、私の中でまあ恥だ。
それでも一時的にでも没頭してみて、事実を探して自分を納得させて言い訳して折り合いをつけ嚙み砕きながら何かを書く。
誰にも心の深度が計れなくてよかった。心の深度なんて人によってベクトルが違うだろうから一概に言えないのだけれど。
なんだろうな、わたしの中で
・何かが壊れそう
・何か新しい扉を開きそう
・もっと自己中心的になりそう
・もっと客観的になりそう
な気がする。
よくも、悪くも。
自己中で、自分が思ったことにより注目していくのか。
他人軸の目で客観的に物事を語るのか。
うまいことのらりくらり渡り歩くのか。
SEO記事をはじめて書いた時とはまた少し違う葛藤を感じる。
でも、ずっとこの落ち着かないままがいい気もする。
葛藤を抱え続けるからこそ、奢らずに不足を謙虚に捉えられる気もする。
心をマヒさせるとラクかもしれないけれど、それは私が望むものではないなと感じる。
せっかくやりたいことに真摯に向かい合おうと思ってはじめたので、そっちの方向ではない。ずっと「意識をたしかに」「自分の心の状態を自覚する」でいたい。
「ずっと楽にならない」を選び続けて安定させるっていうのは
けっこう自分の中のバランスが難しいなぁと感じるのでした。
だいたいのものって、そういうものなのかもしれないけれど🤔