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埋もれた将棋名作ルポ『ライターの世界』(2)全7回

(作家湯川博士の埋もれた名作『ライターの世界』を掘り起こす、第2回)
 
 
 一般的な出版の仕組みから始まった師匠の文章は、将棋の本に話を移す。そして、ルポなので、その後は湯川博士の考えではなく、「取材した文章」へと変わる。湯川師匠の考えは、そのインタビューにところどころ挟み込まれる程度となる。
 
 次の小タイトル『将棋ライター誕生記』は、棋書黎明期に関わった、アマ強豪の関則可さんへの取材文となる。今では考えられない、棋書への雑な対応やいいかげんな扱いが書かれていて、時代を知るいいルポになっている。これを読むと、書き手の関さんがかわいそうになってしまう。

将棋ライター誕生記 
 
 
 ではいつごろから、こういう形態になったのであろうか。初期のころをよく知る、元専業ライターに話を伺った。語るは元アマ名人の関則可氏。
 
「私は近代将棋誌を辞めたころ、奨励会の先輩だったMさんから、詰将棋の本を出すから、問題を百でも二百でも集めてくれ、と言われまして。詰棋作家に頼んでなんとか掻き集めまして本にしたのがはじまり。そのころ(昭和40年)は囲碁の本は出ていましたけど、将棋の本はなかった。Mさんはそこに目をつけた人で、市ヶ谷にM文庫を設立して、今でいう出版プロダクションの仕事をはじめたわけです。ライターは私の他に南川さん(元アマ名人)ほか数人もいました」
 
―― 当時はどうして将棋の本が少なかったんですか。
 
「売れないと思い込んでいたんじゃないですか。今みたいに将棋をやる人が本まで買うという意識は少なかった時代ですから。出版社からすれば、どこかが出してその様子を見てから出そうという気で、つまり自分のとこは貧乏クジを引きたくないと。そういう意味じゃMさんは将棋出版ブームの火付け役としての功績はあったでしょうね」
 
―― 具体的にはどんな仕事ぶりでしたか。
 
「Mさんがあちこちの実用書を出している会社を駆け回って、注文を取り、私らライターがせっせと書く。そして全部原稿料支払いでして、一点につき五万円もらっていました。大卒の初任給が二万円くらいだと思いますから、私らにとっては魅力的でした。で、毎月1冊ずつのペースで、なんでも書いていました。Mさんは恐らくそれを3倍くらいで売っていたと思います」
 
―― そのあとは?
 
「Mさんが適当な名前つけて、どんどんあちこちの出版社に売り込むんです。だから私の書いたものが、どうなったかなんて、わけがわからない時期もありましたね」
 
―― そういえば、近代将棋研究会編とか伊達次郎著なんて本がありましたけど、あれ関さんですか。
 
「見ればわかりますが、たぶんそうでしょう。そのM文庫で2年くらい書いたのかなあ。そのうちにMさんの乱脈がたたってパンクしたんですよ。仕事はできる人だったんですが、なにしろ遊ぶ方も凄い人で。キャバレーだの競輪で火の車。本も粗製乱造で自滅しちゃったようです。そのころのライターは、清水孝晏さんとか川口俊彦さんとか、皆さん今も一線で活躍していますよ」
 
―― M文庫がつぶれてからは。
 
「そのうち、将棋の本も売れることがわかって、あちこちで棋書を出しはじめた。そしてライターの方も、自分でプロ棋士を何人かつかんで、その名前で出すようになったんです。私も一流棋士の本は、大山さん以外はほとんど書きました。企画も構成も全部自分で考えて書きました」
 
―― プロ棋士の実践譜からとったのが多いんですか。
 
「そういうのもあるけど、自分が好きで研究したのも多い。悔しいのは、後から無断で借用する人が多いことですね。居飛車急戦『5七銀左戦法』なんて私が書いたんだけど、ずいぶんその後使われているものネ。これは一度買われた原稿だし、自分の名前じゃないこともあるんだろうけど、同じ将棋の世界で、皆知っている同士なんだから、再び本にするとか、そっくり使う場合は、ひとことあいさつがあってもいいと思うけど。この世界のライターは実に粗末に扱われていると思いますね」
 
―― 今でも売れている本は印税が入るんでしょ。
 
「その問題ですけど、はじめの頃はお金もらえるのがうれしくて、原稿買い取りでもほいほいのって書いてたんですけど、いまだにその本が売れているのを見ると悔しいですね。印税契約にしたのは、ずっとあとですね」
 
 買い取りというのは、原稿を現金で買い取ってしまい、以降の権利はいっさい出版社の掌中に移ってしまう制度のこと。印税契約は、刷り増しごとに何パーセントとか入ってくる制度のことだ。
 
―― 印税の場合はふつうどのぐらいですか。
 
「将棋界じゃ、著者とライターが折半というのが通例でしょうけど、私なんか5割でも腹が立ってやりたくない。6ー4なら人によっては引き受ける。7ー3ならいいと思います。だって、一晩中かかってマス目をひとつひとつ埋めてゆく作業を考えたら、当然ですよ。私の場合、昭和44年に立川に将棋クラブを持ちましたので、以後はそうめちゃくちゃ書くことは減りまして、50年にはやめました」
 
―― 自分の本は書かないんですか。
 
「1冊出しました。ところがこれが買い取りでして、その上15年経った今でも増刷されて店頭に並んでいるんです。イヤですね」
 
―― どうしてです?
 
「15年も経てば直したいところもあるけど、印税じゃないから直すわけにもいかない。版元も充分元をとっただろうから、絶版にしていただきたいですね。将棋ライターを目指している人に、これだけは言っておきたい。買い取りはするな、印税にしろと」
 
 関さんは過去にずいぶん書いたが、いずれも右から左へと売られていって、その行く末もわからない。ある時、心血注いで書いた本が、年月が経って形が変わり店頭に並んでいる。本屋に入って棚からひょいと取った本が、どうも昔自分が書いた本であり、または焼き直しだとする。その時の関さんは気も狂わんばかりに腹が立つという。無知だった自分にか、ずるい相手にかは分からぬが無性に腹が立つそうだ。
 
―― これから自分の名前で出す計画はないですか?
 
「うーん。あのころ私の研究のすべてを、書きつくしちゃって、もう頭の中に何もないっていう感じですね。もうカラカラですよ。今でも依頼が来ますけど、とても書く気がないです」
 
 棋書ライター10年、その数50冊が関さんの将棋の貯金を吸い込んでしまったようだ。

 
 ぼくが初めて対外的に指したのが、上記に出てきた立川のクラブだった。そのとき、席主の位置にいたのが関さんの奥さんだったと思う。そこにちょこっと用足しに来ていたのが、関さんだった。「あの人かぁ」と、指している最中にぼんやり見つめた記憶がある。
 
 現在は老人ホームで詰め将棋を作り、その作品ひとつひとつに、作品の性質に合わせた人名を付けている。デビュー時の羽生さんとも対戦したアマ強豪だが、文系の資質も多く持ち合わせている。権利関係がずさんだった時期に書き頃だったのは、とてももったいない。
 
 
(3)につづく


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