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【全文無料】小説「冬の夜とワイン」小野寺ひかり

 山内聡士にとって、初めて飲んだワインはトラウマでもある。ヨーロッパ旅行で訪れたときの本格的な風味で、口に含んだ瞬間にアルコールの高さと濃度の濃さにうえっ、と喉が詰まった。同行者が、スイスイとグラスを空にしていたのが不思議なほどで。ひと口飲み込むのに相当な覚悟を要した。結局食事の最後までグラスには赤い液体がなみなみ注がれたままになってしまい、自分はお酒が弱いのだと周囲に釈明していた。もちろん体質は嘘ではないのだけども。

 だが付き合いもある。入社したばかりの頃は、ことあるごとにワインボトルが開けられるので、とうとう「アルコールのないワインがあればいいですね」とつぶやくほどだった。「お前それ、ぶどうジュースだぞ」と先輩からツッコミ受けて、M-1決勝並みに笑いをとったこともある。取引先とも、食事会があれば喉を潤すためにワインがオーダーされる。ビールだけで十分だ、と聡士は思っていたがそれを口に出す雰囲気になったことも、その勇気も持っていない。だからアルコールの中でも、聡士にとってワインの味はいつも苦く、渋い。
 「きょうは飲みにくぞ」と上司が告げた。はあい、と女性社員の嬌声が続く。同僚らも、一斉にパソコンを閉じてジャケットを羽織りだす。
 ひと月前にマーケティング部に異動してからというもの、定時から30分後にはこの調子だ。上司をはじめ無類のワイン好きらしく「ソムリエ、料理に合うワインを」とオーダーできるような店へと向かうのが常だ。ビールかシャンパンとも言いにくく、逃げ道が経たれている。しかし、それを望む者からすれば、ほぼタダ酒&タダ飯が食らえるのだからラッキーには違いない。
聡士は「きょうも、ですか」とひそひそと、部内の先輩に告げると、何か問題でも?ときょとんとした。「昨日は行かなかっただろう?」と首をひねる。ははは、そうでしたと肩をすくめた。
 望む者と対には望まない者がいる。マーケティング部に異動してから余計に常に意識して仕事に励むことになろうとは、聡士は思いもしなかった。
「いらっしゃいませ」と小さなお辞儀をするウエイターに、コートを預けた。通いになりつつあるビストロの什器はすべて木材を基調にしていた。暖色系の照明が灯る温かみのある空間だ。来るのは2度目だったが同僚らはすでに常連らしい。続々と出てくる美味しい料理にわっと盛り上がる声が響きあう。赤ワインが人々の喉に吸い込まれ、そのたびに若いソムリエが次の一杯を注いでいく。目の前の料理に集中するほど、鼓膜がほろ酔いの人々の輪から少しだけ遠のいていくのが分かる。心地の良い薄暗さに、思わずはあ、と大きなため息が出ていた。
「お口に合いませんか? よかったらグラスワインでもご用意できますよ」
 減らないワインに気づかれたようで、ソムリエがにこりと微笑む。ひっそり小声なのも察してくれた対応なのだろう。
「すみません、アルコールが苦手なところもあって」
「でしたら。ホットワインはいかがでしょう。外は寒いですし」
 ワインでホット?言われるまま、頷いた。
 差し出された透明なグラスから、ゆるりと上がる湯気。マドラー代わりのようにシナモンスティックがアクセントだ。
「温めた分、少しですが飲みやすくなっているかと」とソムリエが告げる。せっかくだからと、ゆっくり香りを楽しんだ。そうしてゴクリと飲んで、ほうっと息をついた。
「うん、あまい」
 渋みが抑えられて飲みやすい。頬が赤くなるのが分かる。若いソムリエは、すこし誇らしそうに笑みを浮かべた。
「フルーティーな味わいで、デザート代わりに楽しむ方もいらっしゃるんですよ」
「え~、それ何ですか?」
 香りにつられたのか、賑やかしい同僚たちも覗き込んでくる。美味しいですよ、と伝えると飲んでみたい、と女性陣が華やいだ。通いなれているはずの上司でさえ、物珍しそうな表情を浮かべていた。
 「では、皆様の分もご用意しましょう」ソムリエは頭を小さく下げて、その場を立ち去った。
 味わい深く、するすると口をつけてしまう。あれだけ「飲めない」と思えたワインだったが、今度は飲みきってしまうのが惜しいほどだ。
 「ねえ、山内くん」と隣席についた、妙齢で気取った、小平茜が話しかけてくる。「毎晩、飲んで歩く部署だと勘違いしないでね」
 「え」聡士が驚きの表情で答えると、茜は、やっぱりねとクスクスと笑った。
「山内くんが異動してきたばかりだから。あれで、上司も気を遣ってるの。でもさすがにちょっと辛そうに見えまして」
「あら、バレてましたか」
 苦笑する聡士のことを茜が覗き込む。ようやく聡士にも本音を明かせる人物が見つけられたと思った。茜もホットワインに口をつける。ほうっと息をついた。
「美味しいね。来月からは繁忙期だから、飲み会は今だけ。大丈夫よ。ランチも行けるかどうかの忙しさだから覚悟しておいたほうがいいかもだけど」
「あははは」
 聡士は声を出して笑ってしまった。突然笑い出したもので、茜も同僚らもあっけにとられていた。小さな不安を見透かされてしまったことで、何に悩んでいたのかさえ、些末なことに思えたのだ。「あ、少し酔っぱらってしまったみたいで」言い繕いながら、周りをみると全員に笑顔が浮かんでいるのが見えた。
 「期待しているぞ、山内くん」上司がホットワイン入りのグラスを傾けた。
聡士もすっかり空になりそうなグラスを持ち上げて、はい、と返事をした。
冬の夜はもう少しだけ続いていく。


END

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