
能登半島地震② 私にもできること
1月23日、カニカマを製造する商業団地工場に務める川元信治は、石川県七尾市内の避難所の一つ、田鶴浜体育館から出勤していた。カニカマ工場はまだ止まったままだった。普段は工場内で製造管理に携わる川元も事務所や屋外で作業をしていた。

「本当なら工場の中でカニカマを作っているはずなんだけどね」
川元は、普段はあまりやらないパソコン作業をしながらがつぶやいた。
川元の家の玄関扉には、応急危険度判定で「要注意」を示す貼り紙が貼られている。瓦が落ち、壁には亀裂が走り、傾きを感じる場所もある。生活できる状態とはいえ、ベトナム出身の妻は家で過ごすのを怖がった。
「父親が建てた自慢の家。周りには倒壊してしまった家も多い。伝統的な表具店が集まる通りなのに、これからどうなってしまうのだろう」
午前で仕事を切り上げ、家族とともに自宅近くの避難所に戻った。
水や食料や日用品など、避難所には全国各地から支援物資が届く。到着が知らされると川元や力自慢の大人たち(中には90代のおじいさんまで)が、荷物を運ぼうと玄関口に集まった。物資はバケツリレーの要領で、あっという間に避難所の中に吸い込まれていく。皆、不安を抱えているはずなのに、物資が到着すると、まるでイベントのように盛り上がり、どこか楽しく明るい雰囲気があった。
「ここの人は本当に明るい。困っていそうな人がいたら、自分から声を掛けて手を貸してくれるしね」
とは言え、避難所運営を担う若手は不足していた。川元は家の水が出るようになっても避難所に残った。

お互い様で
田鶴浜体育館に置かれた大きな模造紙には、必要な支援やほしい食べ物などの希望が書き込まれている。その中で一際大きく書かれていた言葉に、避難所で生活する人たちの思いが表れていた。
「自分でできることは自分で。できないことは周りに頼んで一緒に、お互い様で支えあっていきましょう」

憩いの場
ここには他の避難所にはないもの、「居酒屋」があった。毎晩1時間だけ開き、15人ほどが集まった。
居酒屋「語ろう亭」は、プロバスケットボールクラブ「金沢武士団」のアドバイザー原島敬之さんが「店主」を務める。体育館の一室を利用した店内には、避難者自身が購入した缶ビールや缶チューハイが並ぶ。おつまみは原島さんの手作りだ。
金沢武士団は避難所がある田鶴浜に拠点を置いている。原島さんはこれまで主に首都圏で、地域を巻き込んだプロバスケットボールクラブの立ち上げや、チームの再建を担ってきた。その手腕を買われ、昨夏、東京から単身七尾市に引っ越してきたばかりだった。
「この地に来てすぐに好きになった。こういう災害時こそ心のケアが大事。一人で抱え込まず、本音で語れる場所を作りたかった」
自身も被災しながら、避難所の生活で心休まる場を作ろうと動いた。その結果、避難所全体に話しやすい雰囲気が広まっていったという。


川元も家族で「語ろう亭」を訪れる常連だ。まだ幼い娘は避難所のアイドルだった。
「小さいのにかわいそうねと言われるけど、避難所に話ができる場があって幸せだなと思う」

自分で見つけたできること
あまりにも大きな災害を前に、何をしたらいいのか途方に暮れてしまうことがある。その中でも「私にもできること」を見つけた社員がほかにもいた。

2月16日、全国から支援物資が集まる七尾市の商業施設「パトリア」の多目的ホールに、普段はカニカマ工場で働く小林謙二がいた。1月の発災以来、工場は止まっていた。パトリアの多目的ホールの入口にスタッフが待機し、訪れた被災者から必要な物資を聞き取り、リストを作成する。小林はそのリストを見ながら、所狭しと積み上げられた段ボールの中から必要な物資を探し出し、被災者に手渡すのが役割だ。
「地震で工場が動かせなくなったから、出勤できなくなった。その時間で誰かの役に立てたらと思って」
話すのはあまり得意ではないと言う。だが、リストを手にした小林は食べ物や生活用品など、あっという間に集めて戻ってくる。派手でもないし、目立つ作業でもない。黙々と物資を集める姿を気に留める人も少ないが、物資を手渡した時の被災者の安堵した様子で、誰かの助けになっていることが小林には確かに感じられた。
仕事がない不安
工場が止まっているため仕事がない、仕事に行けない不安はあった。眠れない日々が続いた。
「1、2月は出社していなくても給料が出ると聞いて、ようやく夜眠れるようになった」
工場が完全に停止していた2か月間、出社しなくても会社が全額給与を支払うと決めたことで、仕事がない間も安心して地域での役割を果たすことができた。

支援することが励みに
断水も長引いた。能登島にある日帰り温泉施設「ひょっこり温泉 島の湯」には、2月に入っても長蛇の列ができていた。
行列の先頭、入浴の予約受付の席に北陸工場で働く金子睦がいた。入浴の順番待ちの整理券を配布するボランティアをしていた。


群馬県出身。「こんなにきれいな海があるんだ」と、能登島の海に魅せられて引っ越してきた。金子は能登島の自宅で被災した。家はキシキシと音をたて、まるで脱水機の中で揺られているようだった。立っていることもできなかった。無我夢中で逃げた。手には寝袋と仕事用の白衣を掴んでいた。いつでも職場に戻れるようにと、避難所に移るときも白衣と一緒に移動した。
だが、工場はすぐに再開できる状態ではなかった。もどかしさはあったが、それなら、何か自分にできることはないだろうかと考え、いつもお世話になっている「島の湯」を手伝うことにした。
「私も先が不安だったので、ボランティアで誰かの役に立てるんだと思ったら、それが励みになった」
自身が被災者であり、支援者でもあり、誰かを支援することで、反対に自分が励まされることがある。
「スギヨの大きな工場が再開することは、地元でも頑張ろうと思う人が増えることにつながる。一日も早く復旧させたい」
2月中旬の時点では、まだ3工場とも稼働していなかった。
次回「専務が行く」