見出し画像

多和田葉子「光とゼラチンのライプチッヒ」書評

本日2回目の更新です。根本龍一さんによる書評です。

多和田葉子「光とゼラチンのライプチッヒ」(日本文藝家協会編『現代小説クロニクル1990-1994』講談社文芸文庫、2015年)

評者:根本龍一

 フィクションを書くということは、一つの世界を表現することであるが、同時にそれ以外の物語の展開の可能性を破壊するということでもあるのはもはや周知の事実である。 

 言葉には意味があるが、物語に教訓はなく、その場その時に思い付いた言葉を重ねることで小話にしている、本作品を読んでそういった印象を持ったが、そもそも物語に意味を求めてしまうことが自分の読書という行為自身を狭めているのかもしれない。 

 本作品では主人公が自身の考案した商品をライプチッヒで売ることを目的としてその旅路を進めていく。主人公は少しばかり傲慢で、思い込みが激しい気があるが、この主人公の語り口が妙な外連味や滑稽味を生みだしている。税関を通るため、主人公は税関員の到着を待つが、そのさなかに、やかんを持った女や、電気剃刀で床から生えた髭を剃ったあと、自分たちの顔も剃ってしまい結果顔がのっぺらぼうになってしまった男たちに話しかける。しかしこの会話がもたらしたのは、物語としては支離滅裂ともいえる結末であった。やかんを持った女は主人公が提供されたジュースを飲むとしわが増え、年を取ったように感じられたが、それ以降に何の会話もなく、ただ主人公が自身の中で思いをはせて終わるし、のっぺらぼうの男たちに至っては、声をかけても会話できず、主人公が背後からかけられた声で振り返るとそこはもはや税関ですらない。背後から声をかけてきたこの男を、主人公は自分のアイデアを盗む企業スパイであると思い込む。そうしてこのスパイとともにライプチッヒへ向かうのだが、そこに向かうバスの中で、主人公は自分の商品アイデアについてスパイによって尋問される。何とかして聞き出されないように会話を進めようとするが、じわじわと追い詰められていく。そんな中、バスを炎が覆い、主人公とスパイは外の野原に放り出される。そこでとうとう、主人公は自身の持つアイデアを話してしまうのだが、その時にはあれだけばれないように大事にしていたアイデアを、話してしまっても構わないと考えているうえに、スパイが主人公のアイデアに興味を失ったと分かったときには、「スパイに邪魔されない商売では、やっても意味がないので、是非ともスパイを取りもどさなければならない」とまで考えている。 

 私は、この作品の二転三転支離滅裂っぷりは、小説の可能性の具体化なのではないかと感じた。小説のストーリー構成に定番はあっても定型はない。ひとつの要素をストーリーに入れたら、それ以外の要素は採用されないことになる。当然、様々な要素やアイデアをストーリーに組み込んだほうが複雑になって深みが増すだろうが、なぜこれをしないのか。小説は文字だけで構成されており、漫画や映像作品に比べ、一つのシーンを書ききることに労力や時間をさほど割かない。それは、文字が情報を伝達することに長けたメディアであるからである。短時間に情報を多く伝えられる、ということは、うまく活用すれば少ないページ数で多くの展開を組み込むことができる。つまり、様々な要素、アイデアを組み込むのに文字というのは適したメディアなのだ。この作品の支離滅裂ともいえる展開の奔流は、本来ならば大筋にストーリーをまとめるために切り捨てなければならないアイデアの余分な枝葉を切り捨てずに、文字の連なりを優先した結果、一つの短編作品にこれだけの情報が入って複雑性が増したのだと感じる。通常の作品ならば、これだけの情報が入り込んでいると読むだけで疲れてしまうが、この作品の語り口はリズミカルで、言葉の持つイメージを断ち切らずに進むため、変な感覚はあるが、読み切れてしまうのだ。 

 言葉の情報伝達能力に重きを置いた「物語」のような「詩」のような、どちらとも取れない本作品は、物語終盤の文章を小説のポテンシャルを引き出そうとしている作家の脳内のたとえとして読むのならば、非常にしっくりくる。しかし、もちろんそのように明言されているわけではない。主人公は物書きではないし、ただ野原に放り出されただけである。終盤の文章がそのように暗示的に隠喩的に読み取れてしまう、そんな言葉の力こそ、作者が最も表現のしたかった小説なのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?