当たり前のことを大切に

『放送教育』(特集:放送教育への提言~教育現場実践者から~)
1995年5月号(第50巻2号)16-1,日本放送教育協会
宮城県仙台市立南小泉小学校 教諭 菅原 弘一

 マルチメディアという言葉がマスコミをにぎわし,放送を取り巻く環境もめまぐるしい勢いで変化している。先行き不透明ともいえる状況の中で放送教育に取り組むにあたり,自分なりの思いを記してみたい。

 まず,現場の利用者として心していきたいこと。それは「はじめに授業あり」ということである。当然のことなのであるが,それを改めて実感させてくれたのは,ハイビジョンとの出会いであった。全く目新しいものを預けられ,多少なりとも舞い上がっていたのは事実である。どれだけすごいものなのか実証してみたいという気持ちが先行し,他のメディアとの比較でその優越性を明らかにすることに必死になった。しかし,比較をすればするほど,それぞれのメディアには他のものに代え難い特性があり,比較して優劣を競えるものではないということが明らかになってくるのである。

 「最先端の映像教材」という言葉に振り回され,右往左往していた私の目を開いてくれたのは「大切なのは,どう違うのかということを明らかにすることではない。どういう授業をつくりたいのか,そのためにどのように放送を利用していきたいのかということだ。テレビがハイビジョンに代われば,授業はこれまでと同じでよいというわけではないはずだ」という助言であった。

 メディアの多様化が急速に進展し,混沌としている今だからこそ「はじめにメディアあり,放送あり」ではなく,「はじめに授業あり」という当然のことを肝に銘じていきたい。

 どのような授業をつくっていくかということと同時に「結果を出す」ということも大切にしていきたい。自分なりの授業観をもち,意図的に放送を利用したとなれば,次に求められるのは,その結果子供たちがどう変わったのかということを明らかにすることである。

 放送利用の実践者が,それぞれ結果を出し合い,よりよい利用法をさぐっていくことが,お互いの授業の改善に役立つのである。そんな当たり前の地道な活動を積み重ねていく努力が,実は大切なのだと思う。そして,このような地道な活動を長い目で見てバックアップしてくれるような環境が整備されれば,現場の利用者としてはうれしいかぎりである。

 最後に,現在自分は放送利用を通して子供たちを受け手として育てるだけではなく,情報の処理,活用ができるような子供に育てたいと考え実践を重ねている。情報を活用しながら自分の思いを外に向かって表現できるようにしたいのである。

 教師や子供の思いが番組制作者の思いと放送を通してぶつかり合う。そんなシステムが確立され,それだけの力量が受け手の側にも育っていくと,放送教育はますます魅力的なものになっていくのではないだろうか。それを実現するためにも,ごく当たり前の活動の積み重ねを大切にこれからも頑張っていきたい。

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