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変かなわたし

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2019年1月の記事一覧

見失った循環

古事記の中にオオゲツヒメノカミが
お腹を空かせたハヤスサノヲノミコトに
お膳を用意する場面があります。

オオゲツヒメノカミは自らの頭を掻き
ふけやシラミを落とし
唾を吐き、鼻をかみ、耳をほせり
大小便をもって材料に加え調味し、
お膳を仕立て上げます。

其れを覗き見たスサノヲノミコトは
怒り狂いオオゲツヒメノカミを殺してしまいます。

けれどもその屍の全ての穴からは
五穀豊穣の芽が出、実がなりま

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よろよろと ふろふろと

「私は、物事をよりよい方向に変えるのが好きです。
世の中の仕組みにも興味があります。・・・」
         (アレックス・リューイン)

こんな言葉を語ることのできる人が
まだ居るのだと思うと

何か気恥ずさしさと、うしろめたさのようなものと
諦めのもの憂さとが入り混じった様な気持ちになってしまいます。

「今」と云う瞬間に、希望の持てる人は何より幸福なのかもしれません。
この瞬間に何かに夢中

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惨めな抵抗

お得感とかまではいかなくても
等価交換の価値を認めようとすると
其の基準となるのは、人それぞれ

私のように金銭の枠組みを外し切れない人間にとって
この金額に見合ったものかどうか
支払ったあと後悔しないかどうかが
多くを占めている。

自分へのご褒美だからといって
思い切った瞬間以外、
ちまちまと絶えず頭の中では計算を繰り返す。
しかも、百円、千円、万単位までが限度で。

例えばケーキ一つ思い浮か

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美化して

酔いしれることに美意識を感じていました。
陶酔することに救いを求めていました。

現実に翻弄されることなく
アウトサイダー的な存在に憧れていました。

誰もが開放を求め、
それまで縛られていた抑圧、
道徳や倫理と云った価値観を、
誰からも強制される事なく
自らの中に築き上げようとしているように見えました。

「死」さえも美化され、
「生きる」事に執着しているかの様子を滑稽と感じ、
生活全般に亘って

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成形

造形を通じて人物を浮き彫りにしていく。
一本の木から削り出す様に
土の塊から形作っていくように

言葉から あるいは映像から、
人物をイメージできるまで集積し、結集させ、
生きた立体として感じ取れる程に
自分の中に形作っていく。

そうして初めて、私のイメージにより実態となって
私の中で生き始める。

それも、私のフィルターを通して生まれた
全く別物の存在として。

そして今私を取り巻く環境の全て

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共に

共にとか一緒にとか、
手をつなごう とか
人を鼓舞する応援語句のように、
頻繁に登場してくる言葉があるみたいです。

でも その意味する処は何なんだ? と思うと、
私の中ではとてもあやふやです。

元々が協調性に欠け、「人の輪の中に」入っていくとか、
「人と交わる」とか、「皆と一緒に」とかの言葉を聞くと、
尻込みしてしまう私です。

人に会うとか思うと、それだけで緊張してしまい
判っていれば何日も

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私はどれほど乱暴に、暴力的に自分の体に接して来たのだろ。
どれほど傲慢に思い上がった仕打ちをして来たのだろ。

悲鳴を上げて泣き叫ぶ声を、どれほどの冷酷さで
無視してきたのだろ。

自分だけの所有物のように、
自分が生み出したのでも、
造り出したのでもない、「からだ」を

さも主人であるかのような横暴さで、
支配しようとして来たのだ。多分・・・

体は借り物、今を生きていくための器。
と云う言葉を

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抹消

認知症と言えば、徐々に記憶を失っていく。
と云う風に受け取ってはいます。
家族の名前や関係すら忘れてしまい、帰る家も見失う。

だとすると、ああしたいこうでありたいと言う欲望も軋轢も無くなり
死に対する恐怖や不安、人への羨みや嫉み憎しみ恨みなど
消えてしまうと言うことなのでしょうか。

身の置き所さえ安全で守られていさえすれば、
家族にとって、残された者達にとっては
寂しい事であり悲しい事のように

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脇役

誰もに「主役を演じたい」と云う気持ちがあると思っていました。
実際誰もが自分の人生の主役だ。と言います。

だとしたら誰もが 他の人々にとっては
「脇役」と云う事になります。

それは私にとって、大発見の一つでした。
これまで気付いた事も無かった感覚です。

ドラマでも映画でも舞台でも
脇役的な人物が、悪人であったり善人であったり
お節介であったり世話役であったり・・・
それぞれの立場で、その人の

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連綿と

「私」と云う存在は、ただ一つの素材から出来ているのではない。
数知れない、測り知れないほどの連綿と続く意識の総体なのだ。
と、今更の様に気付きます。

「ご先祖様」を意識する事は全くありませんでした。
お盆・お正月等たまに手を合わせる事があっても、
それは単なる儀礼的な事で、儀式、行事の一環でしかなく、
信仰心とかは全く無関係なものでした。

けれど気付いてみると、何億年と云う意識の中で
「私」と

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明けまして 始まりに

穏やかに光暖かな元日の訪れでした。

光と闇の混交する世界を
「愛」と呼ぶのかも知れない。

今この3次元空間では、
対極性を総て包み込んだ世界も
「愛」の一つの表現だと知る事
思い出だす事が出来るのかも知れない。

そんな幕開けの一日の始まりなのでした。

これまでの苦難の歴史を生きて来た、
その上にやっと辿り着いた、一つの到達点。
頭では解った様な、言葉では理解した様な
そんな気はしても心底確

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