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握った手をそっと開いてごらん

あてもなくする散歩は、どこか自由で幸福だ。
と私は思う。私にとってのそれは、深呼吸に近い。

どうにもぐるぐると考え込んでしまう日や、気分が落ち込んでどうしようもない日、私はあてもなく散歩することがある。

散歩といっても、どこかしっかりとした目的地があるわけでもなく、近所のいつもは通らない路地だったり、あたたかなコーヒーを持って公園のブランコで飲んだり、あてもなく歩くのだ。

しっかり目標に向かって、計画を立てて、というのが私は苦手で、どちらかというと旅先なんかでも気ままに歩いたりするのが好きだったりする。

それというのも、目的がない散歩をしていると、何かしら発見することがあるからだ。たとえば、見え方が好きな路地だったり、おしゃれな壁の色の家だったり、車のボンネットで寝ている猫だったり、知らないジュースの売ってる自販機だったり「なんだかいいな」と思うものに巡り合ったりする。
私にとって、あてもない散歩は、なにか人だとか社会だとか、肩書きだとか、そういうものよりも、もっと根源的で直感的な「いいな」なのだ。

それは本屋でなんとなく手に取った本の1行目に感じる「いいな」だったり、ふと顔を上げた先に飛んでいる鳥の姿をカメラに収める瞬間の「いいな」だったり、SNSで見かけた些細な言葉の欠片の「いいな」だったり。
そういう「いいな」が積み重なって、時折それを整理したり、どこかに置いてきたりしている。

喩えるなら、海で綺麗な貝やシーグラスを見つけたときのような気持ちに近い気がする。意味もなく、広い砂浜で時間も忘れて何か綺麗なものを探す時間はどこか優しさとをはらんでいると思う。

「いいな」のその先には、「何を大切にしていきたいか」が待っている。
なんだかわからないけれど、とても好きな映画だったり、人だったり、空気だったり、本だったり、経験だったり、そういうものの中から、自分にとって大切なものを選ぶ選択肢がふえてゆく。

意味のない散歩では、毎回いいことが起きるわけではない、けれどそれもまた選択肢の中のひとつなのだと私は思う。知ることが全て良いことだと思っている訳ではないし、生きているうちでは知らないことの方が多いだろうけれど、自分にとって大切なことは自分にしか分からないからだ。

自分にとって大切なことは、どう生きるか選ぶ余白があることだと思う。
少ししかない選択肢から焦って全て持っていくより、これは要るこれは要らないと、自身を軽くしながら、しっかりと大切なものは握りしめてゆきたいと思っている。
そうして、心底惚れ込んだ人や景色はいつまでも忘れないものだと私は思うのだ。それが私にとって大切なことなのかもしれない。

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