連続365日目の投稿。
昨日の記事を投稿したあと、noteからお知らせがありました。
あー、そうなんだなぁ〜。
カッコつけるわけでもないのですが、最近では毎日書くことがごく自然なことになっていたので、特に興奮することもなく、そっかそっか、と受けとめました。とはいえ、ひとつの区切りであり節目であることに変わりはありません。
ということで、365日連続投稿について何か書こうと思ってパソコンに向かったのですが、なかなか手が進みません。気の利いたことを書ける気がしません。書けそうなことから、そろりそろりと書いてみようと思います。
真っ先に思い出したのは、365日前の、毎日更新初日の投稿。
「よし、書くぞ」と決めた日、決めた場所のことを鮮明に覚えています。なんの変哲もないふつうの夜の小汚い中華料理屋さんが出発点でした。なんでもない日のなかに、いやそんな日のなかにこそ、人が変わってしまうきっかけみたいなものは潜んでいるのかもしれませんね。
もちろん、365日分、一つひとつの記事に目を通すことはできません。しかし、タイトルを読んでいくだけでも、この一年いろんなことがあったなぁと胸がいっぱいになります。
そんななかでもやはり、どうしても避けられないのは、父が亡くなったことです。そんな日にも書きつづけました。その日のこと、そのあとに続く一連のこと、そしてこの一年分のことに思いを馳せていると、不思議な居心地の悪さを感じます。なんだか変ですね。嬉しいとか頑張ったとか、そういう類の感情を感じてもおかしくないはずなのに。
いまこうして文章を書きながら、その居心地の悪さの後ろ姿を追っています。その正体を突き止めるべく、壁の影に隠れながら執拗にそっと。
と、ここまで書いてきて、我ながら何てヘンテコなエッセイなんだろうと苦笑いしてしまいます。書き始めたとき、こんな流れになろうとは露も思いませんでした。しかし、正直に書き進めていくと、こんなところに辿り着いたので仕方ありません。
そしてその要因は、こんなところにあるんじゃないかと当たりを付けました。あくまでも予測であり仮説なのですが。
毎日のように文章を書くようになって、じぶんというものを、世界というものをより詳細に見つめるようになった気がします。それは同時に、より広く深く考えるということでもあると思います。
本来であれば達成されるべきことが、達成されないままになっているのではないか。そんな疑念が灰色の雲のように垂れ込めてきています。そんなことを感じながら、気がついたのです。
ぼくにとってこのエッセイ的なものを書くのは「自己変革」なんだ。
この一文をパソコンの画面に打ち込んだ瞬間、覆いかぶさっていた厚い雲が少しだけ晴れて気がします。
つぶさに観察すると文字にする努力を重ねることによって、日常に潜む小さな変化の芽を見つけやすくなる感じがします。
何だかふつうに考えると、365日目の投稿にはふさわしくない気しかしないのですが、、仕方ありません。こうなっちゃたのだから。
こんな調子ではありますが、これからも毎日にようにこの場所に、書きつづけていきます。気が向いたときに遊びに、覗きに来てもらえたらうれしいです。では、また、明日。
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