一円玉をよく拾う、のお話。
五反田のカフェの自動ドアを出ると、約1mほど先の地面にキラリと光るものが視界に入った。目を動かしてそのあたりに焦点を合わせると、なんとそのきらめきは2つあるようだ。
一歩二歩と足を交互に動かし、立ち止まると、ぼくは腰をかがめた。手を伸ばして、そのふたつのきらめきをひとつ、ふたつと人差し指と親指でつまみあげた。そう。言うまでもなく、そのきらめきの正体は一円玉である。
みなさんは、一円玉をどのくらい拾うだろうか?
ぼくは、一円玉をよく拾う。
だからといって別に、運がいいわけではない。(と思う)そう言い切れる理由がある。それは"あるとき"を境に、一円玉をよく拾う、ようになったからである。それまでは、一円玉を拾うことなんてなかった。ちっとも。
では、その"あるとき"とは、一体いつなのか? それは・・・
「わたし、よく小銭を拾うんだよね〜」
という、奥さんの何気ないひと言がきっかけだった。その瞬間、一円玉をよく拾うぼくが誕生した。( ちなみに、彼女が一円玉を拾う姿を何度か目の当たりにしてからというもの、一円玉を拾う率が跳ね上がることになる )
不思議なものだ。
奥さんのまわりだけに一円玉がたくさん落ちているわけではない。もちろん、ぼくのまわりだけに一円玉が落ちているわけでもない。きっと、一円玉はごくごく平等にみんなのまわりに落ちている。( はずだ )
一円玉をよく拾う人と、拾わない人の違いは単純なことだ。
道に落ちている一円玉に関心を向けているかどうかだけである。
ぼくのBefore Afterを比較すると、その違いがよぉく理解できる。
ということは、である。あることに関心を向けたら、それは見つかる、それは起こる、ということではなかろうか。
しあわせに関心を向けたら、しあわせは見つかる、しあわせは起こる。
やさしさに関心を向けたら、やさしさは見つかる。やさしさは起こる。
ゆたかさに関心を向けたら、ゆたかさは見つかる。ゆたかさは起こる。
てな、具合に。
これって、簡単なようだけれど案外むつかしい。話のつじつまが合わないのは承知のうえで、難しいようだけれど案外かんたんなことなんだよなぁ、じつは。
そして、ややこしいついでに、ややこしい話をもうひとつ。
ほしいものに関心を向けることが簡単なのか、難しいのかも、どちらに関心を向けるかだけで決まるんだよな。
ということで、「一円玉を拾った」お話から、「関心を向けることに、もっと関心を向けよう」という結論に辿りついた。お後がよろしいようで。
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今日は2円拾ったことに象徴されるように、佳きこと続きな一日だった。だからといって、大変なことや心配なことがないわけではありません。
なので、大変なことや心配なことを( できる限り )直視して、なおかつ、しあわせに、やさしさに、ゆたかさに目を向けよう。いつでも。どこでも。