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あれでもこれでもない、「それ」をえらべるか?

 きょうはどうしてだろう、もう3種類ほどの書き出しを書いたにも関わらず、ぜんぶ削除しました。どうにも納得がいかないのです。いや、これじゃない、うーん、これでもないな、といった具合に。久しぶりにのんびりとした時間の流れる日で、逆に調子を崩してしまったのか、よくわかりませんが苦戦しています。

 そういえば過去を振り返ると、こういうときがときどきあったなと思い出しました。きっと、書こうと思えば書けるネタはいくつもあって。でも、あれでもなく、これでもない。「それ」を見つけるまで、頭を悩ます時間はつづくよどこまでも、なのです。

 ただ、あれでも、これでも、ない、ということだけはわかるから不思議なものです。しかし、よくよく考えてみるとおもしろくて、 note って自由に書いていいわけだから別に、あれでも、これでも、いい、はずです。ほんとうは。だけれど、心が許してくないというかなんというか。

 うまく伝わるかわかりませんが、 2019年12月27日(金) に書かれるべき「それ」というものが存在している気がしてきます、こういう感覚を経験すると。書くという枠を超えて考えるならば、その時間に、その日に、その年に、成されるべき「ナニカ」というものも存在しているという考え方でしょうか。大げさに言うと、運命論みたいな。

 なんてことを書いていたら、吉本ばななさんの『「違うこと」をしないこと』を思い出し、それに通じるものがあると思いました。たとえばですよ、イタリアンでも、ラーメンでもなく、カレーを食べないといけない夜があるということで、、、なんて書くとバカバカしいと思われるかもしれませんが、たとえばまぁそういうことです。

 もう少し真面目に書いてみると、ある仕事を受ける受けないという選択があったとして、なんとなくこれは違うな、と感じたとします。だけれど、お世話になっている人からの依頼だし、受けたらけっこうなお金は入ってくるし、ということでそれをやっちゃうことが多かったりして。

 しかしそれによって、自由な時間は削られ、ストレスもちょっとずつ蓄積され、ほんとうはやりたかったプロジェクトにかける時間もエネルギーも減ったとしたら、、、あとになってわかることですが、受けるのではなく、受けないほうがよかった、なんて経験みなさんもあるかもしれませんね。

 ということで、どうやらこのネタが、きょう書かれるべきものだったみたいです。そうして、このネタが書かれるべきだった理由みたいなものも、たぶんあって。明日わかるかもしれないし、一週間後にわかるかもしれないし、いつまで経ってもわからないかもしれないし、なんならわかる必要もないのかもしれませんが、ね。

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 きょうも読みにきてくださって、ありがとうございます。「それ」を知っているのは、頭じゃなくて体や心なんですよね。だから、なんとなく、が多かったりするのでご注意を。

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