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73年前の今日という日について。

今日という日は、すごく、微妙に毎日のエッセイが書きにくい日です。1945年8月9日、73年前の今日、地元である長崎に原子爆弾が落とされた日だからです。別のことを書こうとしていたのですが、それも心に嘘をついているようで出来ず、投稿が遅くなりましたがこの記事を書きました。

このような事実を目の当たりにすると、( 実際的にも )胸が苦しくなります。その日その時のイメージが頭のなかで勝手に動き出す感じがしてしまうのです。いつの間にか呼吸が浅くなる感じがして、意識的に深呼吸を心がけるようにします。( トップのサムネイルをアップするのにも何度も悩みました。何度も )

あまりにも重たい事実に目を背けてしまいたくなる衝動に襲われます。事実、20代の頃のぼくはこの日のことは覚えていましたし、黙祷を捧げることはありました。しかし、足を突っ込んで、正確には心を突っ込んでは考えないようにしていた気がします。じぶんの心のなかに生じるナニカを、どう扱ったらいいのかがわからなかったからだと思います。

じつは同じようなことを2011.3.11にも感じていました。

ぼくの母方の祖父母は被爆手帳を持っていました。

もうもちろん苦しくなるのはわかっていたけれど、アメリカの地で8月6日にこの動画を観ました。

こうして書けば書くほど、無力感しか感じません。反対論にしても理想論にしてもそれを想像してみたところで、ことばの無力さしか感じません。だからといって、思考を停止させるのもまた違う気がするのです。まさに八方塞がり。

だからぼくは、その八方塞がりのなかに( じぶんなりの方法で )踏み込み、その場にしばらくのあいだ、じっと踏みとどまっていたいと思うのです。だからどうなる、なんてことはわかりません。それがどういうことか、それもわかりません。ただ感覚的に"そう"したいと思うのです。

( 広島、長崎ともに )被爆したすべての方にお祈りを捧げます。戦争を体験したすべての人たちにもお祈りを捧げます。

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