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クーヤ

 「静かな場所で静かに暮らすために忙しく働いてきたの」
 そう言い続ける妻に根負けし、郊外に一軒家を買った。半年前のことだ。

 最初こそ、僕は不平不満を漏らしていたが、やがて郊外の生活に馴染んだ。懸念だった通勤も慣れてしまえば、なんということもなかった。
 家の裏手には森がそのまま残されていた。土を踏み固めた散策路があるだけで、人工的なものは何もない。
 毎朝、晴れていれば、僕はその散策路をのんびりと歩いた。

◇◆

 クーヤを初めて見たのは雲の多い日だった。朝からどんよりと暗かった。日が沈むとガリガリに痩せた三日月が、この1週間何も口にしていないといった風情で弱々しく夜に浮かんだ。

 僕たちはドキュメンタリー番組を見ていた。淡々としたナレーションが、郊外の一軒家で起きた殺人事件の真相を追っていた。若い夫婦の家に強盗が押し入り、夫も妻も殺される、そういう事件だった。
 番組が終わると、僕たちは気まずい気分でベッドに入った。背を丸め、睡りが訪れるのを辛抱強く待っていた。

 「ねえ」と妻が言った。
 「うん?」僕は相槌をうった。
 「音がしない?」
 「音?」
 「うん。下から」
 「聞こえないけど」
 「キッチンの方」
 「気のせいさ」

 しばらくして、妻が再び言った。
 「やっぱり何か聞こえる」
 「やれやれ」
 僕はサイドテーブルのランプを付け、体を起こした。
 しばらく待ったが何も聞こえない。
 「もう寝るよ」僕がそう言って、ランプに手を伸ばすと、一階でドアの閉まる音がした。
 「誰かいる」妻は声を殺して言った。
 「風じゃないかな?」と僕が言った時、重い荷物を置くような音がした。
 「怖いわ」
 「大丈夫だよ」
 「何が大丈夫なの?」
 「え?」

 「強盗かもしれないわ」妻も体を起こして言った。
 「風だよ」
 「わたし、見てくる」
 「だめだよ、危ない」
 「でも、心配だもの」
 「万が一強盗だったら取り返しがつかない」
 「このままじゃ眠れないわ」
 「見てこようか?」と僕は尋ねた。
 「ええ、お願い」と妻が即座に言うので少し驚いた。

◇◆

 僕はベッドの下から護身用のゴルフクラブを引っ張り出した。それは、ベストスコアで回っていた僕をバンカーに引きずり込んだ罪深い6番アイアンで、それ以来ずっとベッドの下で服役していた。
 クラブを右手に強く握りしめ、慎重に階段を降りていく。じわりと嫌な汗が出てきて、グリップが滑るのが分かった。僕は後悔した。狙うのがバーディーであれ、強盗であれ、ゴルフクラブを使うなら手袋もセットで準備すべきなのだ。

 こわごわとキッチンの明かりを付けると、ダイニングテーブルの上に小さな動物がいた。
 それは見たことがない生き物で、細長いフワフワとした小動物だった。小型のほ乳類特有の愛くるしさがあった。
 ロシアンブルーのような青みがかったグレーの毛色だった。小さな顔に細長い胴体。素材をケチったみたいな短い足が4本ついていた。
「ちゃんとした足を買ってやろうか?」と聞くとクックックと鳴いた。

 その生き物は、リビングの網戸を少しばかり開けて、庭から侵入したようだった。僕は窓を開け放し、その生き物を庭に追い立てた。それから、ベッドへ戻りあらましを妻に報告した。
 「餌をやったりしないでよ」と妻は言った。

 翌朝、僕と妻が朝食を食べていると、リビングから見える庭に昨晩の生き物が現れた。朝日のもとでみると、ブルーグレイの毛並みが美しい。僕は、その生き物を「クーヤ」と名付けた。
 クーヤは毎日我が家を訪れた。僕は愛らしい仕草にすっかりやられてしまい、妻の反対を押し切って庭先に餌と水を用意した。
 ドッグフードも食べたが、鳥のささ身が好物だった。

「軒先きで糞をしたらどうするの?」
「今に落とし穴を掘るわよ」妻はことあるごとに不満を言った。
 そのたびに僕は「クーヤはそんなことしないよ」とやんわり返事をした。

 僕は古典的な手法でクーヤとの距離を縮めていった。最初は家の中から観察し、次は庭に出て観察し、やがて手を伸ばせばクーヤにさわれる距離にまで近づいて観察した。
 3ヶ月も経つと、僕がささ身肉をひと切れずつ皿に置き、その肉を食べるようになった。
 しかし、クーヤが僕に気持ちを許したのはそこまでだった。手から直接食べることは無く、その美しいブルーグレイの体に僕が触れることを決して許さなかった。
 僕は気長に構えた。半年、あるいは1年、2年と時間をかけて信頼関係を築く覚悟をした。やがてクーヤを膝に載せ、その柔らかな体を撫でる日がくると信じて。

◇◆

 その朝、クーヤは思いがけず近くに寄ってきた。あまりに近付いたために、小さな右の前足が、僕の足の甲に触れた。
 クーヤと僕を隔てる分厚い壁が取り払われ、信頼の風がさっと吹き込んだように感じた。

 僕はささみ肉を千切り、肉の先端が皿に触れたところでピタリと止めた。
 いつまでも皿に置かれない肉をクーヤはじっと見つめ、意を決したように食いついた。指先にクーヤがささみ肉をもぎ取る力強い感触があった。
 2,3切れ続けて同じようにささみ肉を与えながら、僕はごく自然にクーヤの柔らかな背中を優しく撫でた。
 その瞬間、クーヤは全身の筋肉を固くして身をひるがえし、僕の右手に強く噛みついた。そして、そのまま庭を走り抜け、森へ消えた。
 親指近くに、蛇に噛まれたような、鋭く深い2つの穴があき血が溢れた。止血と消毒をしたが、夜になっても痛みは引かず、その晩はうまく眠れなかった。

 翌朝、何食わぬ顔でクーヤが庭に現れた。僕の右手に穴を開けたことなど、覚えていないようだった。僕は庭先の皿にドッグフードを入れ、水を替えてやった。

 右手の痛みは収まらなかった。3日目の夜には噛まれた周辺がどす黒く変色し、高熱が出た。
 4日目の朝、痛みに蹴飛ばされるようにして病院へ行った。緊急手術となり、日が落ちる頃には僕は右手の親指を失っていた。
 僕が親指を失った後もクーヤは何食わぬ顔で庭に姿を表した。妻は庭に向かって水を撒き、クーヤを追い払った。餌や水を入れる皿は、とうに片付けられていた。

 失った親指はいつまでも痛んだ。毎朝、庭先にクーヤの姿を見つけると、噛まれた瞬間の焼けるような感覚が走り、無くなったはずの親指がジクジクと痛み始めるのだ。
 クーヤを見るたびにぶり返す激痛に怯え、僕は自然とクーヤを避けるようになった。
 朝食の時はリビングのカーテンを閉めて姿が見ないようにした。クーヤを視界に入れないことで、傷が痛むことはなくなった。だが、朝の庭の景色は失われてしまった。

◇◆

 親指を失ってひと月が経った頃、妻が元気な子犬を一匹もらってきた。僕の運動不足を心配してのことだった。
 というのも、クーヤを怖れるあまり、僕は森の散策からも足が遠のいていたのだ。
 僕は子犬を連れ、クーヤの現れないアスファルトの道を散歩するようになった。

 子犬は僕に良くなついた。僕の手から美味しそうに餌を食べた。皿から食べるよりも、手から食べる方を、好んでいるようにさえ見えた。
 僕がソファに座ると膝の上に乗り、そのまま丸くなって寝息をたてた。

 引っ越してから初めての雪の朝、僕は庭の景色を見ようと、久しぶりにリビングのカーテンを開けた。真っ白な雪の庭に、変わり果てたクーヤがポツンといた。
 ひどく痩せて、ブルーグレイの毛には艶が無かった。怪我をしているようでもあった。僕は失った右の親指に焼けるような痛みを感じた。

 「クーヤがいる」と僕が言うと、妻が駆け寄ってきた。
 「指、痛くないの?」
 「すごく痩せたな、クーヤ」
 「秋ぐらいからよ。食べ物がないのかも」
 「何かあげないと。死んじゃいそうだ」
 「わたしは嫌よ」
 「今なら手から食べるかな?」
 「やめてよ」
 「ささ身はあるかい?」
 「食べないわよ。どんなに飢えてても」
 「たしかに… そうだろうね」
 「カーテン閉める?」
 「いや、そのままで」

 僕はリビングのソファに座り、クーヤを見つめた。子犬が駆け寄ってきて、膝の上で丸くなった。じくじく痛む右手で子犬を撫でた。
 クーヤは永遠に降り積もるような雪の中にじっと立っていた。
 僕は痛みをこらえてクーヤを見続けた。目を離そうとは思わなかった。
クーヤの方も僕を見ている気がした。僕は強く頭を振り、そんなはずは無いと思い直した。膝の上で子犬が寝息をたてはじめた。

END

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パンを買います

ありがとうございます!好きな魚介類はイカです。
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パンのみで生きてます。短編小説しかありません。
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