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「死にがいを求めて生きているの」を読んで③〜自分の人生に自分で意味を与える〜

引き続き、朝井リョウさんの小説「死にがいを求めて生きているの」の感想です。
前回の記事で、この小説のメインテーマが【対立】であることに触れました。

では、朝井さんは【対立】というテーマををどう料理したのでしょうか。
興味深いインタビュー記事を見つけました。↓

例えば、中世・近世を担当された天野純希さんは源氏と平氏、信長と光秀などの対立関係を書く、昭和・近未来を担当された伊坂さんは昭和で嫁姑の対立関係を書く。そんな話を聞いていたのですが、「平成」で、となると、国をあげての対立も、時代を象徴するような個人間の対立も、なかなか思い浮かばなかったんです。自分でこの時代がいいと言ったけれど、悩んでしまいました。

逆に、平成は対立が奪われていった時代だったのではないか?

私は平成元年生まれ。対立について書くことが思い浮かばないと悩んだとき、初めてこう考え始めるようになりました。対立によって人が磨き上げられていくのではなく、自分の内なる個性が重要視されてきた世代なのかな、と。

第2・3話では、雄介達の通う小学校で運動会の種目が削られました。
第4・5話の中学時代編では、成績順位の貼り出しが廃止されます。
雄介はいずれも大反対でした。「モチベーションが下がる」「競い合うことがやる気になる」と教師に抗議します。

朝井リョウさんと同世代の私は、【対立が奪われていった世代】という表現にとても心当たりがありました。
中学の合唱コンクールは順位がつかないこともあり、どのクラスも押し並べてやる気がありませんでした。運動会も危険だからという理由で騎馬戦が廃止され、ムカデ競争は辛うじて削除されなかったものの、ゴツいプロテクターを身につけた上での実施に変更されました。
それでも運動会はまだ勝敗があるのでみんなやる気を出していましたが、合唱コンクールや文化祭の出し物も勝敗を付けるシステムだったらそちらももう少し盛り上がったのかな、と思います。もっと青春を感じられたのかな、と思うとなんとなく悔しく、心残りです。

【対立】は分かりやすい【敵】を生み出します。
「対立なんて良くないよ」「争いなんてなくなれば良いのに」というのが一般論として強いですが、敵がいるということはある種救いにもなります。
生きていて苦しいのって、(自分の人生は無意味なんじゃないか)と感じる時だと思います。でも立ち向かう何かがあれば、やるべき事が生まれます。
(何したら良いかわからない)(やりたい事が特にない)という人にとって、分かりやすく『これを考えておけばOKだよ!』という課題を与えてくれることは、とても有り難いことなのです。
対立は、人生に意味を与えてくれるのです。

人生に意味なんている?と思う人も多いでしょう。
そういう人は多分、自分で意味を探し出す必要が無かった人間です。
つまり、人生においてやるべきこと自分の意思とは関係なく既にあった人間です。
意味を掴み取りに行く必要が無かった人間です。
例えば「あの国と戦ってこい」とか「家族を養うために稼がなくては」とか…
外側から課題を与えられることは、不自由です。理不尽で、苦しいでしょう。

令和を生きる我々は、戦中戦後の頃と比べて生きるか死ぬか的な危機に晒されてはいません。(貧困等の例外は勿論ありますが)
比較的幸せな時代の、しかも日本という割と豊かな国に生まれた我々は、「生きるの辛い」と声を大にして言うことが難しいです。
(なんか悪いな…)って気がするから。
でも、我々には我々なりの新しい苦しみがあります。

それは、自力で自分の人生に意味を与えなくてはならないという苦しみです。
生命維持のハードルが昔と比べて格段に下がった今、ただ生きるだけじゃ物足りないのです。
(何か為さねば…!)という強迫観念です。

6・7話では、大学生になった雄介が色んな活動を始めます。
まずは大学構内で北大伝統のジンギスカンパーティー実施が廃止になったことへの抗議活動。その活動が自然消滅すると、古くからある寮の自治を存続させるための活動に身を投じます。
雄介の活動は全て、活動のための活動です。目的ありきではなく、意味あることをやっている価値ある俺になりたいがための行動です。
もう哀れなくらい薄っぺらい。

対立ってある意味、楽なのです。
やるべき事・考えるべき事を与えてくれるから。
1970年代に学生運動に熱を上げた若者達の中には、“学業に励む事”や“将来を考える事”から逃避したかったという動機の人がきっと沢山いたと思います。
もし雄介が1970年代に大学生だったら、間違いなく学生運動に全力投球していたでしょう。
でも大半の人は、大学4年生になったらしれっと就活をして内定先を決めます。
そして雄介がふと周りを見渡した時、ゲバ棒を汗だくで振り回しているのは自分だけになっているのです。
雄介は自分を取り巻く世界の変化に順応するのが下手っぴな人間だから。
取り残された雄介は、新たな対立構造を見つけて次の仮想敵を作ることでしょう。

やるべき事・生きる意味を模索し続ける雄介…
やりたい事・生きたい意味ではないのです。
これさえやっていれば生きていてもいいでしょう?これを為せば生きた甲斐があったでしょう?という何かが欲しいのです。

この小説のタイトルが「生きがいを求めて生きているの」ではなく「死にがいを求めて生きているの」なのは、そんな雄介のもがきがよく表現されていると思います。

第9話で、雄介が「人間は3種類いると思っている」と持論を展開します。

P396  「一つ目は、生きがいがあって、それが家族や仕事、つまり自分以外の他者や社会に向いている人間。他者貢献。これが一番生きやすい。家族や大切な人がいて、仕事が好きで、生きていても誰からも何も言われない、責められない。自分が生きる意味って何だろうとか考えなくたって毎日が自動的に過ぎて行く。最高だよ」
「二つ目は、生きがいはあるけどそれが他者や社会には向いていない人。仕事が好きじゃなくても、家族や大切な人がいなくても、それでも趣味や好きな事がある。やりたい事がある、自己実現人間。このパターンだと、こんな風に生きていていいのかなって思うときがたまにある。だけど自分のためにやってた事が、結果的に他者や社会をよくすることに繋がるケースもある。自分のために絵を描く事が好きだった人が漫画家になって読者を楽しませる、とか」
「三つ目は、生きがいのない人。他者貢献でも自己実現でもなく、自分自身のための生命維持装置としてのみ存在する人。俺、思うんだわ。辛くても愚痴ばっかでも皆とりあえず働くのは、三つ目の人間に堕ちたくないから何だろうなって。自分のためだけに食べて、うんこして、寝て、自分が自分のためだけに存在し続ける方が嫌な仕事するより気が狂いそうになる事、どこかで気づいてんだろうなって」

もちろん雄介は自分のことを三つ目の人間だと自覚していて、だからこそ三つめが一番辛いと語っているわけですが、朝井リョウさんのうまいなぁというか、優しいなと思うところは、一つ目と二つ目に属する人間の辛さも描いている点です。

1話の語り手、白井友里子は看護師です。他者貢献の代表的な仕事です。
雄介に言わせれば「自分が生きる意味って何だろうとか考えなくたって毎日が自動的に過ぎて行く。最高」なタイプの人間ですが、それ故の辛さもあるのです。

あらゆるタイプの人間を取りこぼすことなく、それぞれの悩み・葛藤・辛さを掬い取ってくれる朝井リョウは、もしかしたらとっても優しい人なのかもしれません。


次回は、対立以外にも人生に課題を与えてくれるもの〜朝井リョウを読んで、なぜか失恋ショコラティエを読みたくなった〜について書きたいと思います。


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