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映画「Mother」〜その“絆”は依存か愛か〜

「Mother」、観ました。めちゃくちゃ上質な映画でした。
決して幸せな気持ちになる映画ではありませんが、考える事が好きな人にとっては思考を促す有力な触媒になる作品でした。
126分全く飽きることなく引き込まれたのは、抜け目ない脚本・演出・演技の賜物です。全く笑える内容ではない映画ですが、クオリティが高すぎて笑えます。

上映中、物語に没頭しながらも色んなことに思いを馳せました。
その中で特に強く考えたことについて述べたいと思います。

1、自立とは依存先が分散された状態である

この映画はシングルマザーの秋子と、その息子・周平の共依存関係についての物語です。周平が7歳くらいの頃から、17歳で祖父母を殺害するに至るまでが描かれています。

労働意欲の無い秋子は常に金欠です。
にも関わらずパチンコになけなしのお金を費やし、依存できそうな男を見つけては秒で肉体関係を結び、綱渡り的に生きる日々を送り続けます。
学校に馴染めない周平は小学校すら卒業できないまま、秋子に付き従い各地を転々とします。
秋子にも周平にも、頼れる肉親や友人はいません。
時間をかけて誰かと人間関係を結ぶということをしない、或いはできない彼らには、お互いしかいないのです。
それ故、2人の関係性は超・密です。
濃い人間関係を“絆”と呼ぶのであれば、彼らは強い強い“絆”で結ばれていることになります。
確かに秋子と周平の間にある何かを表現する時、“絆”という言葉以上にしっくりくる言葉はないかもしれません。
“絆”という言葉だけ切り取ると、それはもうキラキラした、素晴らしいものというイメージが浮かびます。
脳内でGReeeeN!が流れます。
しかしこの映画で描かれた“絆”は、人をズブズブと蟻地獄の中に引きずりこむタイプの“絆”でした。


その“絆”ゆえ、周平は秋子にどんな仕打ちをされても秋子から離れようとしません。
それを「子供はどんな親でも愛してしまうからだよね」という言葉で片付けるのは思考の停止だ。と、この映画を見て感じました。
果たしてそれは“愛”なのでしょうか。
他を知らないからそれに縋り付いている状況は、果たして“愛”なのでしょうか。

個人的な話になりますが、先日友人と会いました。
私にとって彼女のイメージは、“自立している素敵な女性”です。
「彼氏作んないの?」と何気なく聞いたら、「無理やり作らんでもいいかなーって思ってる。いなくても十分楽しいし」と答えた彼女はとても凛としていました。
「自立してるよね」と言ったところ、「自立してる状況って、何にも依存してない訳じゃないんだって。依存先が複数あって、分散されてる状況が“自立”なんだって友達から聞いた」と言っていました。
彼女には友達が沢山いて、熱中できる趣味があって、やりがいのある仕事があって、良好な関係の家族がいる。
確かに、“依存先”が複数あるのです。

それを聞いた時、私の脳内で風がスコーンって吹き抜けました。
言語化できたー!!っていう爽快感です。

秋子には依存先が周平しかなく、周平には依存先が秋子しかありませんでした。
もし彼らに他にもいくつかの依存先があったなら…
あの結末には至らなかったでしょう。
もっと違う未来が拓けたことでしょう。

2、依存は愛ではないと言い切れるのか

そう考えると、「依存が含まれた愛は愛じゃない」と言い切ることもまた思考の停止であり、決めつけだなぁと思いました。
依存自体は決して悪いことではないのです。
というか、社会的動物である人間が何にも誰にも依存せず生きていくことなど恐らく不可能。

問題は依存の分配だったのです。
「依存の分配ができていない愛は愛じゃない」のではなく「愛は愛だけど、不健康な愛」であり、「改善の余地ありな愛」なのだという結論に至りました。私の中で。
秋子の愛が愛じゃないなんて、誰にも決めつけられません。
周平の愛が愛じゃないなんて、誰にも決めつけられません。

そんな愛でもいいから無いよりマシだと思う人もいるだろうし、そんな愛からはさっさと抜け出したほうがいいと思う人もいるでしょう。
どちらを選ぶかは自由です。
抜け出すのは勇気がいるし、抜け出した瞬間とその直後はより一層の孤独を味わうことになる。
でもやっぱり、そんな愛でもいいから無いよりマシ思考を選択した秋子と周平はやっぱり幸福には見えませんでした。最後人殺しちゃってるしね。

もっともっと、幸せになれるのに…
その可能性は無限にあったし、分岐点だって沢山あったのに…
周平は実の父親から、「父さんのところへ来るか?」と言ってもらえていました。
借金取りから逃げる母親について行かずに、社会福祉士の亜矢さんの力を借りることだってできたはずです。
秋子にだって、阿部サダヲを見捨てて土建屋の男の元でそこそこ平穏に暮らすという選択肢がありました。
より幸せな未来を築くために、エイヤッと勇気を出して一旦その愛を手放す道だって彼らにはあったはずなのです。


3、切羽詰まった生き物は未来に思いを馳せられない

「より幸せな未来を築くために」と言いましたが、そういう思考に至れるのは今現在、ある程度の余裕がある人間だけなんだな。とも思いました。

やっと出会えた信頼できる大人・社会福祉士の亜矢さんに、周平が「夢とかある?」と尋ねられる場面があるのですが…あの場面は辛かったなー…

「夢とかある?将来、こんな仕事やりたいなぁとか」と聞かれた周平は、キョトンとするのです。
「考えたことない」と言うのです。悲壮感がないのがまた悲しい。

未来に思いを馳せられるのは、恵まれているからこそなのだと思いました。
今日明日を生きるのに精一杯な周平には、数年・数十年先なんて見えないのです。
小さな小さな光量しかない今にも燃料が切れそうな行灯を持って、暗闇の中を歩いているようなものです。
数十メートル先なんて、見たことがなかったのです。
今日明日を生きるのに精一杯な虫や鳥や動物には、だから夢がないんだと思います。夢っていうか、長期的な願望。

秋子は映画の中で、何度もセックスします。
長澤まさみさん、頑張ってました。
ただ、何度もそういう場面があるのに、一度も色っぽいとは思えませんでした。
セックスというか、交尾だったから。
ものすごく、動物っぽかった。
そんな演技ができる女優、なかなかいないですよね。
長澤まさみさんへのリスペクトが一気に高まった映画でした。
ダー子恐るべし…

4、なぜ「Mother」というタイトルなのか

鑑賞後、ふと「なんでMother」ってタイトルにしたんだろうと思いました。
「Mother」というタイトルは、この映画をかなり限定してしまっているように感じます。

この映画の登場人物達は、みんなそれぞれトンデモです。
やばい人達です。

だけど、全く分からない人間が一人もいないんです。
倫理的にも法律的にもそれはやっちゃダメー!な行動を取る人物だらけなのですが、「でもなんでそういう行動をしてしまうか」が分かるのです。
それがこの映画が笑えるくらい質が高いと思った所以です。
秋子の母、秋子の父、皆川猿時演じる市役所の人、阿部サダヲ演じる内縁の夫、一見大人だと思ったら性欲と孤独に負けた土建屋の上司、大賀演じるラブホの店員…みんなそれぞれ興味深いキャラクターでした。

未熟で自立できない人々を描いた群像劇なので、「Mother」と限定せず「Child」というタイトルでもよかったんじゃないでしょうか?


ともかく、2020年の邦画ランキングベスト3には絶対入るであろう素晴らしい作品でした。
面白かった…!!!拍手。


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