見出し画像

#BlackLivesMatter 黒人差別に思うこと

黒人というカテゴライズ

連日のデモのニュースやSNSを見ていると、Blackや黒人という言葉で一定の集団がカテゴライズされていることに非常に違和感がある。

そこには黒人は単一で、多様性のない存在であるというメッセージが込められているように感じるからだろう。

アメリカ社会のなかにだって肌の色が黒くてもビジネスやスポーツ分野で高い功績を残したり、そもそも大統領になれる人だっている。
それなのに黒人という表現を使う場合、抑圧され貧しく虐げられた人という期待を込められて使われる。

それゆえに、その言葉にはひとりの人間だという確かな実感を伴ってくれない。

アフリカではどうか

肌の黒い人が多数を占めるアフリカでは差別はないのだろうか。私は3年間スーダンに滞在し、スーダン人と結婚しており、そこで感じたことを話す。

上の写真はスーダンの民族ごとに分けられたものである。
スーダンという言葉はアラビア語で「黒い土地」という意味で、アラブ世界から見ると肌の黒い人たちが住んでいる地域ということになる。
しかし、写真をみると肌の色から装飾、顔の傷などなど非常に多様性に溢れていることがみてとれる。それもそのはずでスーダンは200以上の民族が暮らしていると言われている。

そんな多様性のあるスーダンで、結論から言うと人種差別は存在する。
一つ目は出身地による差別。仕事の面接では出身地が確認されることが多く、ダルフールやコルドファンという長年紛争をしていた地域の出身者は信用されなかったり、毛嫌いされる傾向がある。

二つ目は肌の色だ。中東からみたらスーダン人は総じて肌の黒い人達だ。
しかし、スーダン人にとって全てが同じ黒ではない。
エジプトや中東の血が混ざっている民族の肌は、南部のアフリカ系の肌より白いというのだ。
肌の色は生活レベルに直結している。路上生活者は圧倒的に肌の黒いアフリカ系の人達だ。
これは植民地時代にアラブの血が混ざった民族を優遇する大英帝国の分断統治の名残が影響している。
結婚を控えた新婦が結婚式前には外出せずに家の中に閉じこもり、肌が白くなるといわれている煙を体に浴びたり、薬品を使ったりして少しでも肌を白く見せようと努力することからもいかに白い肌が良いとされいるかがわかる。そして、黒い肌がいかに差別の対象であるかがわかってくる。

他の国の人からみたら総じて黒人と呼ばれる集団の中でさえ肌の色による差別が歴然と存在するのだ。そしてそこには権利の差がある。貧富の差がある。
同じ土俵に立たせないという断固たるバリアが存在する。

これは黒人の権利拡大運動じゃない

現在の黒人差別を解消しようとする運動は、黒人の地位向上という枠組みで捉えては足りない。黒人同士の中でも差別は存在する。
さらに世界中で問題になっている人権問題は、黒人に限ったことではない。
ウイグルの中国政府による弾圧、ミャンマーのロヒンギャ、クルド、香港、ヨーロッパの移民問題

すべては強者による弱者の抑圧だ。

だから、現在起きていることは、既得権益保持層vs持たない者の争いという捉え方をした方がよい。

既得権益を持つ人の中には差別に反対だという人がいる。しかし既得権益を手放してまでそれを達成しようとする人はほぼいない。

なぜなら今まで虐てきた存在が同じ土俵、いやそれ以上の力を持った時を恐れているからだ。

わかりやすく例を言うと、日本はアジアの安い労働力使って利益をあげてきた。フェアトレードなど状況を改善しようとする人は多い。しかし、もしそのアジアの国々が経済的に発達し、逆に日本人を安い労働力として搾取するようになることを望むだろうか。
そしてかつて行った屈辱を相手が同じように行ってくることを想像したらどうだろうか。

アメリカの白人の歴史はまさに非人道的な行為のオンパレード。もしその虐げられてい人たちが力を持ったときのことを想像したらどんな状況になるか誰でもわかる。
だから彼らは既得権益の確保に必死になる。絶対に変わらない。変わらせない。

差別の裏には恐怖がある。

恐怖は克服できない。

黒人運動で終わらせてはいけない。

世界中の抑圧を解放する好機にまで発展させなくてはならない。

これは終わらない戦いだ。

皆様からの温かいサポートは、日本に憧れを持ち、日本に留学する夢をもつスーダン人の若者が日本語を学ぶ活動に使わせていただきます。