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須田光彦 私の履歴書18

宇宙一外食産業が好きな須田です。

青山のプリントショップに出向いた私は、多少の不安は有ったもののアルバイトは既に確約されていたことと固く信じていました。

高校の頃より働いていたので、当然東京でも働きながら学生生活を送る計画でした。
今ここで新たなアルバイトを探すロスは、絶対に避けたかったことでした。

上京する際に決めていたことがあります。

今までもそうであったように、アルバイトは全て今後の飲食業のサポートを行う上で役に立つ業種を行うことを決めていました。
お金のために、無駄なアルバイトはしないと決めていました。

専門学校ではインテリアデザイン科でしたので、建築的なことは教わりますが、すなわち3次元的なことは教えてもらえますが、グラフィック的なことは覚えられません。

2次元は、どこかで学ばなければならないと考えていました。

ですからこのプリントショップで働くことで、2次元的なことを学べると考えて、3月にアルバイトをお願いしていました。

今思えば本当に戦略的な高校生でした、自分でも振り返って感心してしまいます。

必要な知識は実戦でお金をもらいながら体得しようと、どん欲に考えている18歳でした。

その計画が総崩れになることが嫌で、社長に強い口調で話してしまいました。

強い口調で反応してしまい一瞬失敗したかなと思いましたが、言ってしまった手前こちらも後には引けません。

いつもこの、後には引けない状況が若いころは多かった気がします。
常に退路を断つような状況がありました。

こちらの真剣な様子を察していただけたのか、渋谷の事務所まで今すぐ来るように言われました。
電話をお店の美人のお姉さんに替わるよう指示されて、待っていると電話が終わりました。

お姉さんが社長に支持された通り、渋谷の事務所までの地図を書いてくれましたが、表参道の駅から地下鉄に乗るルートを書きだしました。

東京の子ですから当然のことです、今の私でも同じくここから地下鉄に乗ってと指示しますが、当時私はまだ地下鉄に乗ったことがなく、外の景色が見えない地下鉄が怖くて、どこかに間違って行ってしまっても気づけないことが怖くて、地下鉄以外のルートを聞きましたが、原宿駅まで戻らなければならいと言われてしまいます。

青学の前から原宿駅までは、結構な距離があります。
1.5㎞位はあり、しかも人通りもものすごく多いです。
この距離を歩くくらいならと考えた私は、事務所までの距離を聞きました。

当然お姉さんには距離はわかりません、北海道では距離を聞くことは日常的なことだったので聞いてみましたが、東京では㎞数を聞くことは一般的でないんだと気づきました。

なぜ距離を聞くのか質問されたので、答えました。

「事務所まで走っていくのが確実だから、どれぐらいの時間で着くのかわかるので」

自分にとっては極普通の当たり前の選択でしたが、この答えは想像をはるかに超えていたようで、「ウソでしょ~ ホントに走る気?」と、絶叫されてしまいました。

でも、それが確実だったんです、私にとっては。

そこで、お姉さんに地図を書いてもらいました。
「青山通りを下って、二股を右に渋谷駅のガードをくぐって109を左に行くと道玄坂があるから」と、書きながら言われましたが、まず109がわかりません。

私は、「ひゃくきゅう」だと思っていたので、109と書きながら「イチマルキュウ」って言っていたけれど何のことか理解できませんでした。

そこを丁寧に教えてもらい一つクリアーして、次は道玄坂がわかりません。
道玄坂ってどんな坂ですか?と質問するとまた丁寧に教えてくれます。

道玄坂を登ってくと吉野家があるからと地図を書きながら言われましたが、吉野家がわかりません。

帯広に豚丼屋は何軒もありますが、牛丼なる食べ物をまだ知らない頃です。
当然吉野家も知りません。
そこも丁寧に教えてもらいながら、地図を見ていると何となく5㎞位かなと想像しました。

実際は3㎞程度の距離ですが、人ごみの中を走っても20分~30分くらいかなと考えました。

お姉さんに、走って事務所に向かうことを社長に伝えていただくようにお願いして、店を飛び出しました。

地図を見ながら走っていきました、二股を右に、ガードをくぐって、イチマルキュウを見て、道玄坂を登って、吉野家を過ぎて左に、そうして小さな雑居ビルの3階の事務所に着きました。

ベルを押して待っているとドアが開いて見覚えのあるおじさんが出てきました。
あの社長のおじさんです。

私の顔を見て開口一番「お前本当に走ってきたのか!」驚いていますが、「その割に息もあがってないし汗もそんなにかいてないな、ほんとに走ってきたのか?」と、質問してきました。

あの頃は、3㎞程度では息が上がることも汗をかくこともない、その程度の距離です。
ほんの数か月前までは毎日のように走っていたわけですから、この程度の距離は全く問題のない距離でした。

本当に走ってきたことを伝えると、驚愕しながらも中に入れてくれました。

初めてデザイン事務所に入って、感動してしまいました。

デスクが沢山並んでいて、専門的な機械があって、プロのデザイナーがいっぱいいて、「わ~ 本物のデザイン事務所だ! ここまでホントに来たぞ!」と、16歳のあの秋から2年が経過しているので、感慨深いものがありました。

人生たった18年しか生きていない中の2年です、人生の10%に相当する期間ですが、実際に人としての意識が出てからの期間で考えると、その比率は大きくなります。
しかも高校の時の辛い経験があった後のことです、とてつもなく感動しました。

簡単な面接をしていただきましたが、当然ですが条件の話しになります。
条件は、食事が着くこと、時給は500円、時間は学校が終わってから仕事が終わるまで。

何一つ文句はありません、あろうはずがありません。

賄いがあるということは、毎日出勤すればお昼ご飯にありつけます、大きな課題の解決です。
時給も500円も貰えます、ついこの前まで320円で喫茶店でコーヒーを運んでいたので、500円という金額は驚愕でした。
仕事も教えていただいて、ご飯も食べさせていただいて、500円も貰える、東京はいいところだなぁ、夢のようだと心底思いました。

勿論、条件はそれで構わないことを伝えると、席を用意してくれました。
そこで、少し何かやってみるかと言われ、やりますと即答しました。

自信がどうとか、ちゃんとできるのかとか、そんなことはどうでもよく、兎に角やってみたくて、
どうせ帯広から裸で出てきた山猿かヒグマみたいなものです、失敗を怖がるとか、恥をかくという概念が全く存在していませんでした。

簡単な文字並べをやらせてもらいました。

今なら、パソコンで文字を打てばものの数秒で終わることですが、当時は支持線を引いて、その線になぞって手で実際に切った文字を並べていく、そんな時代でした。

文字の間隔を揃えながらまっすぐになるようにピンセットで1文字1文字並べましたが、これがデザインの初仕事です。

さっきまで青山のお店でどうなるかなと思っていましたが、今はこうやってデザイン事務所で文字並べをしていることに、驚愕していました。

初日は文字をいくつか並べて、夜8時くらいに帰してもらえました。
4~5時間は作業をさせてもらえましたが、もう帰りの電車の中では有頂天どころではなく「ここまで本当に来たぞ~」と、心の中では叫びっぱなしで、ずーっとにやけていたので完全に変な人として映っていたと思います。

この事務所はフジテレビをはじめテレビ局数局と契約していて、番組ごとにスタッフが着るTシャツやイベント用のユニフォームを作っていました。

ボクシング番組とレギュラー契約していて、後楽園ホールにセコンドが着るユニフォームを届けるのが私の担当でした。

ボクシングが全盛期の頃でしたが、テレビで見ていた後楽園ホールの裏方として仕事をしていることにワクワクしていました、ボクシングファンの父親に自慢したくなりましたが止めました。

ついでに、ただで試合も観戦できました。

選手の入場する通路に立って、遠くからですがリングを見ることもできました。

ある日、隣でブツブツ言いながらシャドーボクシングをしている変な人がいて、熱心なボクシングファンなんだろうなと思いながらその人の顔を見るとなんと、元世界チャンピオンの輪島功一さんでした。

東京に出てきて間もないころです、世界チャンピオンに出会えたことに感動して握手をしていただきました。

その後20数年後に、仕事で輪島さんと再会しましたが、その時のお話をして感謝をお伝えしましたが、当然覚えているわけもなく軽く流されましたが、私は非常に感慨深いものがありました。

歌番組が全盛期の頃だったので、アイドル歌手をはじめとした歌手の新曲キャンペーン用のTシャツも沢山納めていました。

数か月前まで帯広でくすぶっていましたが、夢と思っていた世界が現実に、日常になってく瞬間でした。

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