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誰もが昆虫である / 「ブルーベルベット」

型があるから型破り、という言い回しがあるように、デヴィッド・リンチ監督の問題作とされた1986年の映画「ブルーベルベット」は、実は従来の型をしっかり踏襲した作品になっている。
ファム・ファタールとしてのドロシー(イザベラ・ロッセリーニ)、迫り来る悪役フランク(デニス・ホッパー)、そして悩める主人公ジェフリー(カイル・マクラクラン)と、物語の大きな構造は完全にフィルム・ノワールそのものだ。そして他のフィルム・ノワールの作品たちをなぞるように、スクリーンのなかは暗く見えにくい場面が多く、陰影が特に強調されて撮影されている。
初めに映し出される美しい芝の下で蠢く虫が本作のモチーフだ。フランクが吸入器からガスを吸う様子が幾度も強調されていたが、この吸入器を付けた姿はハチやカマキリなどの昆虫の顔を連想させる。また、フランクに協力する男が常に黄色いジャケットを着ているが、英語で yellowjacket とはスズメバチのことだ。そしてホモのベンが奥の部屋に人質を監禁していることを考えれば、ベンとは女王蜂のことだろう。つまり、映画「ブルーベルベット」とは、劇中でサンディ(ローラ・ダーン)がセリフのなかで示唆していたように、コマドリすなわち主人公ジェフリーが昆虫(ハチ)を食べてしまう話である。
このように、フィルム・ノワールの基礎の上で、象徴(シンボル)も効果的に使い、まさに伝統的な映画になるはずが、リンチ監督は全てを変換する。ロイ・オービソンの歌う「In Dreams」に感動しながら口紅を塗りたくってジェフリーにキスをしまくるフランクの姿なんて、まさしく倒錯そのものだ。青いベルベットに興奮したり、見られることを嫌ったり、そうしたシーンの印象があまりにも鮮烈なせいで、物語の全体がイカれたトーンに"見える"ように撮影されている。つまり、多くの人たちは本作の感想を「倒錯」とか「サドとマゾ」みたいな単語で埋めているようだが、リンチ監督の主眼はSMのような行為ではなく、そうした行為を惹起する精神のあり方なのだ。このことは前回の記事で取り上げた「ロリータ」と共通している。あるいは、「サイコ」(1960年)に似ていると言ってもいい。青いベルベットや In Dreams の歌はキッカケに過ぎず、人のなかに宿る暴力や支配欲、愛を求める姿など、むき出しの心を描くことだけにリンチ監督は集中している。
そもそも、主人公ジェフリーも侵入と覗き見という人の根源的な欲の一つを象徴している男なのだ。何かを"見たい"というジェフリーの姿は、昆虫を探すコマドリのようなものである。そこでジェフリーは夜に蠢く昆虫たちを発見することになるのだが、こうした昼と夜、芝と昆虫、という二面性のなかで見逃してはならないことは、この"昆虫"をつくりだすものは精神のあり方であり、それは誰の心のなかにも共通しているものではないかという視点からリンチ監督は撮っている。たとえ綺麗事を言っていても、君たちもまた in dreams、つまり夢の中ではフランクではないですか、ということだ。
本作はフィルム・ノワールであり、サイコ系であり、ミステリーであり、スリラーでもある。ジャンルなんて才能ある監督の作品には意味をなさない区分けである。ちょうど物理学の座標変換のように、リンチ監督は映画のあらゆる型を"リンチ変換"して、まったく観たこともないように感じられる映画を撮ったわけだ。この4年後にリンチ監督は「オズの魔法使い」をリンチ変換している。

優れた映画監督や小説家は皆、こうして人の精神を題材にする。こんなに奇妙なものは他にないし、見えないからこそ、見えるところから迫っていくしかない。サドがどうのとか、そんなことは「ブルーベルベット」という映画にとって、およそどうでもいいことである。

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