見出し画像

女のカンには敵いません / 「リプリー」

たとえば、こんな話を思いついた、と言って、ある人の語る作り話が面白かったら、それに越したことはない。もちろんそんな話はごくまれにしかないのだが、パトリシア・ハイスミスが1955年に発表した The Talented Mr. Ripley はそういう小説である。アレゴリーだの象徴だの、くだらないことが一切抜きの本作は1960年にアラン・ドロン主演で「太陽がいっぱい」として映画化されたのだが、この映画よりもより原作に近い1999年の映画「リプリー」の方が面白い。
しかし本作は、実に珍しい作品である。なぜなら、主人公であるトム・リプリー(マット・デイモン)は映画のなかで、ディッキー(ジュード・ロー)、フレディ(フィリップ・シーモア・ホフマン)、そしてピーターを殺害している連続殺人犯である。しかし観客の多くはトムに肩入れし、逃げ切ってほしいと願っている。それはトムが貧しい生活を抜け出そうとしているからでも、ホモとして恋心に悩む姿が描かれているからでもないだろう。人の心の動きを見抜き、これから起きることを予見するなど、頭の良い男でありながら、咄嗟に殺害してしまうという衝動に身を任せた行動を見せたことにより、観客はみんなトムに親しみのようなものを感じやすくなったのだ。
つまり、どの映画でも頭の良い人物とは大抵シャーロックのように"性格のおかしい人物"として造形されることが多いのだが、トムは性格がおかしいというよりも、他人をうまく利用するために立ち回る男として描かれている。これは詐欺師の姿である。実際に原作では、トムはもともと詐欺師だった。テレビドラマ「ホワイトカラー」や「メンタリスト」などがあるように、頭の良い人物は詐欺師として描く方が観客に支持されやすい。なぜなら、物語であれ現実の世界であれ、頭の良い人物に視点を持っていけば、その周りの人物がバカに見えてくるからだ。これではストーリーがうまく回らなくなる。現実の世界なら、嫌われておしまいである。しかし詐欺師ならば、うまく詐欺を遂行できるかどうか、観客は一緒に楽しむことができる。トムが咄嗟にディッキーを殺害してしまい、そのことを誤魔化しつつ、ディッキーの友人たちにも素性を隠し通そうとする姿を描くことで、観客は頭の良いトムにガンバレという気持ちを抱くことができる。"性格のおかしい"シャーロックが人気であるように、"バレそうになっている"リプリーに共感できるのだ。
リプリーの talented である様とは、要するに賢いことである。しかし、ただそれだけでは観客に"いけ好かない奴だ"と思われてしまうため、衝動的に殺害してしまったり、ホモだったり、そうした仕掛けを設置することで、この映画は最後まで楽しんでトムの目線で観ることができる。
そしてこの映画では、マージ(グヴィネス・パルトロー)だけが、リプリーの殺人を見抜いていた。男が女に嘘を突き通すことは大変である。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?