善良な羊飼いは嘘を吐くか?
眠りが浅かった。ふ、と開かれた目蓋の間からエメラルド色がこぼれる。数度瞬きを繰り返しているうちに、階下からのひそやかな物音が耳に届いた。
「……?」
不思議に思って身を起こす。肌寒い空気にカーディガンを羽織り、シュガーは様子を見るために階段を降りていった。
キッチンの戸の隙間から細く漏れる、やわらかな明かり。
「……ハニー?」
「あら、シュガー。物音には気をつけていたのに。起こしてしまったかしら」
「そうではないよ。それより、こんな夜中にどうしたの」
「なかなか寝付けなくて。特に読みかけの本もなかったし、明日の朝食の仕込みでもしてしまおうかと」
テーブルの上には、焼かれるのを待つだけになったスコーンが並んでいた。シュガーが聞いたのは後片付けの音だったらしい。
「なるほどね。今度は無事に、狼の口が開くかな?」
先日作られたスコーンはうまく膨らまず、代わりに彼女が頬を膨らせていたことを思い出しながらシュガーは言った。
「……狼?」
「うん。焼きあがったスコーンの腹が、ぱっくり割れてたらいい出来。それを狼が口を開けているのに喩えるんだ」
「初耳だわ」
細い指でつやつやとした生地をつついたハニーは、狼から連想された話を振る。
「ねぇシュガー。羊飼いと狼の話、知っているでしょう」
「寓話の?」
「ええ。羊飼いの少年が『狼が出た!』と嘘をついて大騒ぎ。騙された村の大人たちが武器を持って出てくるけれど、狼なんていやしない。焦る様を愉快に思った少年は繰り返し同じ嘘を吐き、いざ本当に狼が現れたときには、どんなに叫んでも誰も助けに来なかった」
「うん。嘘ばかりだと信用を失いますよ、って教訓を与える話だよね」
「表向きはね。貴方は結末をどう記憶している?」
ハニーの問いに、シュガーは少しだけ考えた。かつて寝物語に聞かされたことを手繰り寄せる。
「結末……羊飼いの少年が狼に食べられてしまうんじゃなかったっけ」
「それもひとつ。あと、村中の羊が狼に食べられるパターンもあるのよ。前者は嘘吐きを繰り返すことへの咎め。後者は真実を信じられなかったことへの罰。というところかしらね」
ハニーが髪を束ねていたリボンをほどくと、砂糖色のくせっ毛が豊かに広がった。
「あなたは、嘘を吐くことについてどう考えるのかしら、って」
ハニーのガーネットの瞳は、感情の色を巧みに沈ませていた。けれど、だから。シュガーは丁寧に言葉を探す。
「嘘は……武器なのだと、思うよ。
誰かを悲しくさせたり傷つけたりする嘘は、その嘘を吐いた人の弱い部分を守るために振りかざされているものだ。寄ってくるなと言わんばかりに。
でも、誰かを守るために吐かれる嘘だってあるだろう。……それが、正しいことなのかどうかは別で」
質問の意図を取り違えてはいないか、と気にはしつつ答える。
しばしの沈黙。
「なら、上手に扱わなくてはね」
「……そうだね。君はこれまで、どんな風に武器を振るってきたのかな」
「まあ。嘘なんて吐いたことないわ」
「嘘でしょ?」
「ええ、勿論」
どこまで本気なのかわからないハニーの言葉に、シュガーは思わず破顔する。お気に召してはもらえたようだ。
「じゃあ、そろそろきちんと休もうか。もしも必要ならナイトキャップは用意するけど」
「いいえ、構わないわ。もう眠れそうな気がするから。……でも、そうね。
きちんと狼が吠えてくれるように、願っていてちょうだい、羊飼いさん?」
「はいはい。おやすみ、ハニー」
「おやすみ、シュガー」
15/7/2
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