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スコピーのSNSポリシーを策定しました

Twitter(現X)を使い始めて17年以上経つ。FacebookやInstagramもとっくに10年以上だし、ThreadsやBlueskyはわりと最近だけどそれでも1年以上は経つのだな。早いね。20代前半はmixiもやってたし、自分の社会人生活の大部分はSNSと共にあったともいえる。なんていうか、あるのが自然、あって当たり前の環境という感じ。人生の全部じゃないが一部はSNSの中に置いてきた、という感覚も正直ある。とか書いてたらmixi2だってさ。ああもう。

今まで特に大きなトラブルに巻き込まれるようなこともなく平和に利用してきたのだけれど、一番長く身近に使ってきたTwitterがXになったり、その後も世の中いろいろあったりして、これからSNSとどう付き合っていこうかを再考したくなったのだった。

なお、あくまで鈴木個人、スコピー個人のSNS利用に関する話であって、クライアント企業・団体のSNS運用に関してどうこう言うつもりはまったくないです。



スコピーのSNSポリシー「SNSは適当に…」

結論はこれだけである。

SNSを使い分けるとか、ルールを厳密に決めるとか、アルゴリズムを意識して運用するとか、そういうことを考えて決めて守ろうとする時間・気力・体力がもったいないと感じるようになった。人生は短い。

複数のSNSで、同じことを投稿することもあるし、しないこともある。仕事関係で告知することもあるし、しないこともある。気分と時間の余裕次第で適当にやる。キャラや人格を変えるというのも面倒だし自分には必要なさそうなのでやらない。

そもそもたくさんのフォロワーがいるわけでもなければ、誰かに頼まれてやっているわけでもない。適当で差し支えない。


誰に見られてもOKなことしか書かない

これは、SNS以前、ブログとか、テキストサイトとかの頃からずっと心がけていることで、おかげで身バレにも怯えず、FBの実名主義登場にもうろたえず、炎上もバズりもせず平和に暮らしてこられた。

鍵アカだろうが限定公開だろうが、公開は公開である。見られてまずいことは絶対に書かないし写真も投稿しない。スクショとられるだけで漏れるんだから。

たくさんの人に読まれないとしても、誰かに読まれる前提で書く。それは、誰にも見られない自分だけの帳面に言葉を書くこととはやはり少し違ってくる。

インターネットすべてにおいて、今後ともこの原則は守り続けていこうと思う。


雑談、日記の下書き、思考のドローイング

基本的に雑談以外のなにものでもないのだ。自然と意見を含むことはあっても、この場で特定の誰かや広く世の中に対して意見を主張したいとか、議論したいとか、そんなつもりはない。

ただ、その記録が残っていて、遡れるってところがSNSの新しさというか他にない重宝ポイントというか。Twitterのない時代なら下水に流れていって終わりだった他愛もない独言や会話的な言葉が残っているのは、意外と財産でもあってたまに見返すと発見があったりする。同時に、遡及的に非難されるリスクでもあったりするが。

そのような前提で、自分という人間の人間性を、思想と技術、嗜好と制約のありさまを、その軸と揺れ幅や変化の過程を、差し支えない範囲でのんべんだらりと晒しておくというのは、スコピーの営業的にも悪くないことだと思っている。


友人がいる場所なので

SNSは情報チャネルなのか友人知人との交流の場なのか。前者だけならすぐに辞めたり変えたりできるわけだが、後者もあるからなかなかそうはいかないわけで。

日頃SNSでしかやりとりのない友人もいる。それを昔と同じ意味で「友人」と呼んでいいのかはわからないけれど、親しみをおぼえていることは確かだ。

だから、使い分けという意味では自ずと、そこにいる人たちのことを思い浮かべながら、そこに言葉を書いたり写真を載せたりするのだと思う。伝えたいことや目的が特になくても、友達なら問題ない。


離れて暮らす高齢者の家電についてる見守り機能みたいな

普段会うことのない友人・知人へのカジュアルな生存連絡として、手軽で気楽に続けられるのがSNS。おかげで久しぶりな感じしないね、なんてよくある会話である。

スコピー的にも集客ツールまではいかないがリマインドツールとして、キープインタッチツールとしては機能してるんでないかなと思う。

公私ともに元気でやってますツールとしてのSNS。電気ポットを使っている形跡があるから大丈夫だね、みたいなことだろうか。


やめないけど減らすよ

以上、SNSが自分にとってはそれなりに意味や役割のある存在であることが確認されたわけだ。だから、今すぐバサッとやめることはないだろう。

適当に、とはいえ、意識して今よりはぐっと利用を減らそうと思っている。

SNSを見る時間、書く時間、それが細切れの時間であっても、もっと本や雑誌を開きたいし、もっとノートやテキストエディタを開きたい。

特に、見る方においては、流れてくるものが最近つくづく酷い。これは今回の再考の大きな動機である。SNSは甘じょっぱくて栄養のないお菓子だ。どんなにあとで気分が悪くなるとわかっていても、気をつけなければ食べすぎてしまうようにできている。

ここ2ヶ月程度、試しにX利用を減らしている。悪くない。


広告屋としてそれでいいんだっけ

ビジネスにおけるコミュニケーション支援を生業にする人間として、メディアへの接触を減らしていくってどうなん? というのはずっと思ってきたことだ。そういう生業だからこそ新サービスはまず使ってみようというのも多少は意識してきた。

けれど、正直、今でも見られていないものはたくさんあるし、そもそも「ぜんぶ見ておく」はとっくの昔に現実的ではない。

おれは、コピーライターとして、そうじゃないところで戦っていきたいなと思っている。もちろん、必要に応じて見るものは見るし、自分にわからない感覚はチームで補っていく。今もそうしている。


「適当に」は、適当に実現できない

わざわざ「適当に」と明文化する意味、公開する意味ってあるのだろうか? ほとんどの人はもともと適当にやっているつもりだと思うし、おれだってそうだ。

でも、バランスよく適当にやるって難しい。本人はそのつもりでも実は影響力の強いものに引っ張られて偏っていきがちである。何でもそうだけど特にSNSは、適当にやらせてくれない力学がビルトインされているように感じる。

ところで、この「個人事業主日記」を書いているnoteというサービスはSNSなんだろうか。ちょっと検索してみると、そうとも言えそうな感じも、言わない感じもして、すぐにすっきりとはよくわからない。

まあ、適当に…


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