中国の難しさ、それを埋めるための統制、人々の選択(「中国「コロナ封じ」の虚実」読書感想文)
高口康太さんの「中国「コロナ封じ」の虚実 デジタル監視は14億人を統制できるか」を読みました。
中国において行われたコロナ対策について、なぜそれらが感染者数の大幅な抑制という「成功」を得たのか、それを可能にするための人々の大動員と国民の協力はどのように実現されたのか、などの観点から解説・評価した本です。中国に暮らしている中で見てきたコロナ対策の数々の実態を改めて知ることができ、たいへん勉強になりました。
「野味」をやめない人たち
なかでも僕が印象に残ったのは、「野味」の問題についての一節です。「野味」とは、要するにゲテモノ食のことです。具体的には書きませんが、あまりメジャーではない動物の肉を食べる習慣のことだと考えてください。
この「野味」は、以前より希少動物の保護の観点から問題視されており、関連する法律も存在していたものの、基本的には放置されていました。しかしコロナ禍においては、衛生上の問題があるとして野味を強く規制する法案が改めて可決されました。
しかし、その後も具体的な規制はほとんど進まず、広西チワン族自治区における「野味」のイベント(ある動物の肉をテーマにしたお祭り)も例年通り開催されたといいます。つまり、何も変わりませんでした。
そのほか、人々の衛生観念もコロナ禍によって大きく進むとされていましたが、一定の期間が過ぎるとほとんどが元に戻ってしまったことなどが挙げられています。
これは、僕の体感とも一致します。世界的には深刻な感染拡大が続いており、中国でもまだ強い警戒が呼びかけれらていた去年10月の時点で、ある地方都市においては誰もマスクをせず、道端に痰を吐き、麻雀やポーカーに興じていました。
人治社会の欠点を補う統制
大量の人を動員し、数千万人の隔離を成功させる一方で、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」人々の行動を、根本から変えられないのはなぜなのか。どうして「野味」の習慣やマスクの着用すらコントロールできないのか。著者の高口さんは、それついてこのようなことを述べています。
中国はいまのところ、あらゆることが属人的に決まる社会です。法律を含むルールの運用は一律ではなく、至る所に存在するグレーゾーンの中で、どこまでの振る舞いが許されるのか空気を読みながら人々は生活しています。
これを前近代的、非先進国的というのは簡単ですが、中国については致し方ない面もあります。あまりに広大な国土と膨大すぎる人口を抱える中で、隅々にまで統一したルールを遵守させることは容易ではありません。どこかで強権であったり、公平ではないが効率的な意思決定だったりが必要になります。
また、中国の発展と変化の速さがその難しさに拍車をかけている部分もあります。あまりに早く進む世界の変化に対して、それについていくための啓蒙や教育が追いつかないのです。若者と高齢者、都市と地方などのレイヤーで分かたれた両側を見れば、すでにマナー意識や法律への態度、中国語で言うところの「素質」は雲泥の差となっています。
いくら「野味」をやめろといっても、公衆衛生に気を配るようにしろといっても、どうしても一定数の人がそれを聞き入れません。この落差を埋めることは、もはや地道な啓蒙や教育ではどうにもならないようにも思えます。
そういった啓蒙で追いつかない部分を、中国はデジタルを含む統制でカバーしようとしているのではないか、というのが高口さんの指摘です。
いわゆる先進国が長い時間をかけて獲得してきたような秩序に届かない部分を、管理によって埋めようということです。確かにそう思って中国のやっていることを見ると、納得のいく部分が多いように思います。
それは人々の選択
僕の周囲にいる中国人は、今の中国社会について、みんな口を揃えて「中国人太多,没办法」(中国は人が多いから、どうしようもない)といいます。
手放しに今の中国の体制を肯定する人ばかりではありませんが、そういった人でも「全員が秩序を守るのは中国では無理」「遅れた人には、適切な管理が必要」「人が多い中国では、日本や西欧のようにはいかない」という意見を持っていることが大半です。
外からはディストピアかのように見えることもある中国の管理社会ですが、意外とこれは中国人自身の選択でもあります。高口さんも指摘している通り、これからもこの流れは加速していくでしょう。
それはある意味、自らの内心の自由をも手放し、また「遅れた人々」の内発的な社会への協力を永久に不可能にしてしまうような危うい選択にも見えますが、しかし外様にしか過ぎない日本人の僕は口を挟む資格はありません。
ただその中にいて、その成り行きを見守っていくのみです。
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