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"3rd Place"から"0th Place"へ

4月5日(金)に開催する「空海とソーシャルデザイン2019」キックオフイベントでは、ゲストにThinktheEarthの上田壮一さん、NOSIGNERの太刀川英輔さんをお迎えし、「ソーシャルデザインというテーマでいま話してみたいこと」をたっぷり伺おうと思っています。

僕も含めて3人×3つずつ=9つのキーワードをもとにトークを進めていく予定ですが、僕が出そうと思っているキーワードがWHOから始めよ!、0番目の場所、「やりたい」から「やらせていただく」へでした。

前回に続いて今回は、0番目の場所について書いてみます。


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サードプレイスの3つの種類

家庭でも所属先でもない、"第三の居場所"としての「3rd Place」という言葉は、すっかり定着してきたように思います。

義務感からではなく、喜んでやってくる。個人の社会における地位に重きをおかず、何も必要条件や要求がない。

このような3rd Placeを持つことは、自分自身を、無意識に縛り付けているものから解放されたり、他者との出会いを通じて、自分自身の立ち位置をメタ認知できたり、といった個人的なメリットだけでなく、市民参加の機運を高めるといった社会的なメリットも大きい、とされています。

サード・プレイスの例としては、カフェ、クラブ、公園などである。アメリカの社会学者、レイ・オルデンバーグはその著書『ザ・グレート・グッド・プレイス』(The Great Good Place)で、市民社会、民主主義、市民参加、ある場所への特別な思いを確立するのに重要だと論じている。(Wikipediaより)

最近の研究では、社交的な交流が自然発生的に生まれる社交的交流型だけでなく、自分ひとりで気ままに過ごせるマイプレイス型、問題解決のため意図的に創出された目的交流型という3つに分類されて議論されているようです。

日本独自の発展の形として、特に若い世代を中心にマイプレイス型のニーズが高まっているというのは時代の気分としてとても示唆的ですね。


0番目の場所=自分のための聖地

ここで僕が注目したいのは、3rd、2nd、1stよりももっと手前の場所=「0th Place」なるものです。(「ゼロス・プレイス」だと呼びにくいかもしれないので、「ゼロ・プレイス」でもOKです)

0th Placeとは、端的に言えばゼロに戻る、だけでなく、ゼロから始まる場所のこと。日常のあれこれを完全に手放して、ずっと大切にしてきたことを思い出す、そんな自分のための聖地のような場所です。

僕にとっての0th Placeで思い当たるのは、高野山の奥の院やハワイ島のマウナケアですが、最初の0th Placeは25歳のときに登った屋久島の太鼓岩でした。

朝イチの山頂に僕ひとりだったので、覚えたての座禅をしていたあるとき、「自分と自分以外の命にいかなる差があるのだろうか」という不思議な一体感が溢れてきたのです。

その瞬間をどう例えたらいいのだろう。思い浮かぶ限り、言葉にしてみる。

触れられている。
包まれている。
愛でられている。
通じている。
お互いに、喜んでいる。

確かにわたしはここにいて、そのことが絶妙である。何かから離れていて、ひと呼吸して、戻ってきて。何らかの一部であることを確かめて。

いま喜んでいるそれは、僕なのかもしれない。あのひとは、もうひとりのわたしなのかもしれない...

鳥肌を信じて生きてきた

それ以降、太鼓岩は僕にとって特別な場所となります。子育てと仕事の両立で疲弊しきっていたときには、「どうしてもそこに行かなくては」という思いに焦がれ、家族に相談して一人訪れたこともありました。


0番目の場所=リトリートのための場所

リラックスできて素に戻れる場所という意味では、3rd Placeのひとつであるマイプレイス型と共通しているようにもみえます。でも何かが決定的に違うのです。それは何なのでしょうか。

ここでヒントとしたいのが、「仕事や家庭などの日常生活を離れ、自分だけの時間や人間関係に浸る場所」であるリトリートです。

"リトリート合宿"や"リトリート・ツアー"といった形で、みなさんも耳にしたことがあるかもしれません。僕の大好きなハワイ島のリトリート施設は、PAPERSKYなどさまざまな雑誌で特集されていますし、日本国内でも"ホリスティックリトリート"を唄う穂高養生園も人気ですね。(そういえば、つい最近のWIREDもリトリート特集でした)

そんなretreatを英和辞典で引いてみると、「退却、後退」「静養先、隠れ家、避難所」「黙想」などなど多義的な言葉であることがわかります。

そもそもretreatは、キリスト教における重要なキーワードでした。典拠となるのが、こちらの一説です。

6:30
さて、使徒たちはイエスのもとに集まってきて、自分たちがしたことや教えたことを、みな報告した。

6:31
するとイエスは彼らに言われた、「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」。それは、出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。

6:32
そこで彼らは人を避け、舟に乗って寂しい所へ行った。

マルコ6章30-32節」より

ここで"寂しい所"(英語では「deserted place」=人気のない場所)と表現されているのが何とも意味深いですね。

こちらのサイトによればイエスが教えたのは「Sabbath(休息)」「Silence(静けさ)」「Solitude(孤独)」の3つのSであり、休息を取り、静けさの中で敢えて"ひとり"になることで神と出会い直すよう促したのだそうです。

つまりretreartとは、スピリチュアルな成長を促す訓練としての「黙想」であり、それを実践する「静養先、隠れ家、避難所」に向かうことであり、さまざまな人間関係のいざこざ、争い事からの前向きな「退却、後退」でもあったのでした。


マイプレイスと0th Placeの違い

0th Placeを(本来の意味での)リトリートのための場所とすると、3rd Placeのひとつであるマイプレイス型との違いが浮かび上がってくるのではないでしょうか。

マイプレイスのひとつとして挙げられているのは、街中のカフェです。ひとりなので誰とも話す必要もなければ、誰からも話しかけることもありません。本や雑誌を読んだり、考え事をしたり、自由気ままに"何をしてもいい"場所。それは大勢の人に囲まれた中での孤独の場所でもあります。

一方の0th Placeは、"何もしなくてもいい"場所といえるかもしれません。ただ、ひとりとして空っぽになるだけ。その結果、自分よりも大きい何かとつながる事ができる、より正確に言えば、"既につながっていること"を思い出すことができる。孤独でありながら実は孤独ではない場所、それが僕にとっての0th Placeであり、空海から学んだ宇宙観なのです。

もちろん0th Placeにおいて瞑想や座禅、祈りあるいはヨガといったプログラムがゼロに戻る手助けをしてくれますが、それを「しなければならない」と思考した瞬間にはその本質は逃げていってしまうのかもしれません。

連載「空海とソーシャルデザイン」の最終回では僕が毎朝唱えているマントラをご紹介していますが、究極的に言えば屋久島や高野山に行かずとも自分の部屋を自分だけの聖地にすることもできるはず。大切なのは僕にとっての鳥肌のような一度の衝撃的な体験であり、その記憶はどこでも再生可能なのです。


なぜ0th Placeが必要なのか

どうして0th Placeが大事かといえば、そのような場所でこそ、日頃のdoに振り回される自分を脱ぎ捨てて、本来の自分のbeとつながり直すことができるからです。

ソーシャルイノベーションの主要な理論である『U理論』では、オープンなマインド、オープンなハート、オープンな意志が整ってこそ、すべての現象や出来事をインスピレーションとして捉えることができるとしています。そういう意味では0th Placeは100年時代の創造性の源泉であり、昨今のマインドフルネスなどへの注目も、その流れにあると思っています。

きっと0th Placeはこっそりと大切にしたいものであり、おおむね一人(か大切な人と二人)で行くものであり、そこまでオープンに共有されていないのかもしれません。

だからこそ0th Placeに光を当てて、そのパターンを発見し、誰でも0th Placeと出会える確率を高めていけるように。あるいはそういうスピリチュアル的なものへの誤解を解き、気軽に大事にしている習慣をカミングアウトできるように。そんなことを勉強家として試してゆきたいと思っています。

みなさんはどんな0th Placeをお持ちですか? 心当たりのある方は、ぜひ教えてください◎

はじめまして、勉強家の兼松佳宏です。現在は京都精華大学人文学部で特任講師をしながら、"ワークショップができる哲学者"を目指して、「beの肩書き」や「スタディホール」といった手法を開発しています。今後ともどうぞ、よろしくおねがいいたします◎